今日は個人的なことを少し書いてみます。
私は以前、ある団体に所属していました。
その団体は瞑想と奉仕の普及活動を行っていました。
この団体のイデオロギーを広めることが、
世界に平和をもたらすのだと、
かつて私は固く信じていました。
しかし、そこには常に葛藤がありました。
人間は一つだと主張しながら、
私はこの団体に所属していて、
所属していない人や、
他のことを信じている人、
との間には必ず垣根がありました。
私の行っていることは偽善ではないか、
という考えが何度もよぎりましたが、
観念に凝り固まった私の心では、
きちんと理解することはできませんでした。
分離があるところには必ず衝突が生じる、
というシンプルな事実に気付いたのは、
それからずっと後のことでした。
分離があるところには対立がある
自分自身を日本人だと思っている限り、
私たちは日本人以外の人と必ず、
対立します。
私たちが意見を持っているかぎり、
異なる意見の人と、必ず対立します。
私たちが宗教に属している限り、
異なる宗教に属している人と、
必ず対立します。
私たちが利己的であるかぎり、
他の利己的な人と、
必ず対立します。
意見を受け入れる、相手を尊重するとは?
『異なるものを信じていても、
異なる意見を持っていても、
お互いを尊重していれば対立しないよ』
などとは言わないでください。
それは非常に表面的なごまかしではありませんか?
あなたは尊重し受け入れると言います。
例を挙げて見ましょう。
あなたと異なる意見の人がいます。
あなたは彼の意見を尊重し、
受け入れると言います。
あなたが受け入れると言うとき、
実際あなたは何を受け入れているのでしょう?
彼に対して、あなたは心を閉ざしませんか?
彼との間に壁を築きませんか?
意見が異なるとき、
あなたと彼が意見の壁を越えて、
理解しあうことはあるでしょうか?
では、意見を持たなかったらどうでしょう?
私たちの間に壁はないので
互いを理解し合うことができます。
受け入れようとしているのは誰?
受け入れることも拒否することも同じです。
受け入れるというとき、
そこには必ず中心が存在します。
受け入れようとする「自己」がいます。
拒否するときも同じです。
拒否するとき、そこには中心が存在します。
この同じ中心が、私とあなたを分かつのです。
理解するということ
私たちがお互いを理解するためには、
私とあなたの『わたし』という中心が、
なくならねばなりません。
『わたし』が全ての分離の原因だということを、
理解しなければなりません。
この理解が私たちに洞察をもたらし、
洞察が『わたし』という中心を、
焼き尽くします。
互いの「わたし」が不在のときのみ、
私たちは真に理解し合うことができます。
その時にのみ私たちは、
愛するとはどういうことなのかを、
知ることができるのではないでしょうか。
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