動機や願望のない自由な観察
自己を観察するとき
あなたは自由でなければなりません。
偏見や結論を携えたまま観察しても
あなたの観察は正確ではありません
あなたが仏教徒だとして
仏教の知識を基に観察しても
ありのままのあなたを
観察することはできません
あなたはあるがままの自分の上に
仏教に関する知識を重ねて
観察するのでその観察は
知識に歪められるからです
また苦しみから抜け出したい
という動機をもって観察しても
ありのままの自分を正しく
見ることはできません
苦しみから逃れたいという願望が
観察すべきものとそうでないものを
決めるので事実を事実のままに
見ることはできないからです
動機が観察を方向づける
動機があるときそこには方向があります
方向があるということは、
観察が限定されるということです
B地点に行きたいとします
B地点に行きたいというのが
あなたの願望・目的であり
その願望が行く方角を決定します
このときあなたは地図全体を
見渡すことはできません
あなたは生の一部しか見れません
あなたの観察は現在いるA地点と
これから向かうB地点周辺に
制限されるのです
あなたの注意は地図全体にではなく
A地点B地点周辺に限られます
このことからもわかるように
動機や願望があるかぎり
全体的な観察は決してできないのです
どのような動機でも動機があるかぎり、
正しい観察はあり得ません
自由は理解をもたらす
自己を理解するとき
自己を観察するとき
あなたは何よりもまず
自由でなければなりません
全ての宗教・全ての霊的指導者
動機・願望・結論・信念・思想から
自由でなければなりません
鎖に繫がれたままでは
あなたの観察は鎖の長さに
制限されるので物事を
全体的に観察することは
できないのです
他人の意見だけでなく
自分の意見にも汚染されて
いない透明な目で、
自分という変化し続ける存在を
そして他者を観察しなければ
何一つ理解することはできないのです
自由は最後に掴むものではなく
先ず最初に自由がなければ
なりません
あなたの踏み出す第一歩が自由でなければ
その一歩が信念や主義に染まっていれば
自分のことも世界のことも歪みなく
観察することはできないし
断片的な観察から生まれる理解は
ひとりよがりの理解でしかありません
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