選択肢がある私たちは自由ですか?
選択肢が沢山あることは何か自由であることのように
思われていますが、本当にそうでしょうか?
選択の自由なんていいますが明確なとき、私たちは選択しますか?
選択するとき、私たちは混乱していませんか?
クリアなとき、私たちは選びますか?
混乱している精神だけが、選択するのではありませんか?
迷いがない瞬時の行為
車があなたに向かって猛スピードで突進してきたら、
あなたは直ぐに除けます。
「左にいや右に逃げようかなー、迷うなぁ」とは考えません。
そこには咄嗟の行為があります。
「人を殺そうか、どうしようか」とは正気な人は考えません。
なぜならそれについてあなたは明確だからです
選択の余地はないからです。
殺すという選択肢はないからです。
同じように愛に選択肢はありません。
「彼女を愛そうか愛すまいか」などと考えません。
( 愛の背後に動機が隠れているなら別ですが..w )
このように私たちがある事柄について明確であるとき
そこに選択肢は存在しません
ですから自分が選択するときはいつでも、
混乱していると認識することができます。
迷いのないとき選択肢はありません
暴力や怒り、嫉妬や野心、貪欲や執着心がどのようにして
起こるのか、それが何をもたらすのかを理解するとき
理解が即座の行動をもたらします
そのとき私たちは、選択していません。
貪欲さを見つめる
自分の貪欲さを、あなたが観察したとします。
「貪欲さを手放そうか、いやでも手に入れたときの快感、
価値ある人間として認められたようなあの感覚!
たまらないんだよなあ、手放すのどうしよう」
このときあなたには「手放す」「手放さない」
の選択肢があります
両者の間で、あなたは揺れます。
さて....
あなたは揺れている = あなたは混乱している
ではありませんか?
あなたは混乱しているから、選択肢があるのです。
毒蛇に出くわしたら「逃げる」「逃げない」の
選択肢はありません。
ですが貪欲さとなると途端にあなたは、
「手放す」「手放さない」という選択肢を持ちます。
これはどういうことでしょうか?
それは....
貪欲さが何をもたらすのか、
あなたはきちんと見れてないのです。
貪欲さの危険性を毒蛇を見つけたときのように、
はっきりと見れていないということです。
はっきりと観察できないから、迷うのです。
はっきりと見たら、選択肢はありません。
観察があって行動があるだけです。
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観察すると根本的に変容する
混乱しているときに選択する
最善の選択は何か、、、
〜すると○を得て△を失うという損得・快不快に基づいて、
私たちは行動します。
しかし混乱する私がとる行動はどれも、混乱しています。
だから自分自身の内部の混乱を、理解しなければなりません。
内部の混乱を理解して取り除かなければ、
私たちのとる行動はいつまでたっても、混乱をもたらすのです。
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明確なとき私たちは自由です
その時にのみ、秩序ある行為は生まれます。
そのとき社会道徳や規律や霊的指導者に倣うことはありません。
雲一つない空のようにクリアなとき、
私たちは誰にも何にも従うことはありません。
はっきりと物事が見えているので、指針を必要としません。
混乱している人が規律や方法を求めて社会道徳やルール、
価値観に従い、精神指導者に追従するのです。
私たちが明確なとき秩序がありますので、
彼らの虚偽を見ることができます。
社会道徳やルール、価値観の虚偽を、
既存宗教、精神指導者の虚偽を見ることができるので、
私たちはそこから離れて独り立ちます。
精神的に何にも依存せず、倣わず独り立つとき、
私たちは完全に自由であり、無選択の行為をとることが
できるのです。
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