自己・自我が止むと美は現れる

2019/03/04

愛 真理 自由 秩序 利己的な私

t f B! P L



生きる=芸術


アートの語源はラテン語の「アルス」で、
「アルス」には「自然の配置」「才能」「技術」
などの意味があります。

生きることが芸術になるのは、
人間関係・政治・経済・地域のコミュニティ・仕事・
娯楽・快楽・趣味・宗教・自らの思考などの
生のあらゆる分野が自然に配置され各々が相応しい場所に、
収まっている状態にあるときではないでしょうか?

どれか一つに偏るのではなく、
それぞれがその相応しい場所で機能していることが
生きる芸術、生の美しさではないでしょう?




特定の方向に向けられる関心


性欲だけ、快楽だけ、スポーツだけ、政治だけ、
仕事だけに焦点をあてた人生は、
生のほんの一部しか味わっておらず、
そのような精神は他の分野における生の美に
気づくことはできません。

自分の興味のあること、自分のゴールにしか
目が行かないからです。

その精神は常に断片的で一定の方向に向かっており、
やがて他者との間に亀裂を生じます。

私たちが生のあらゆる分野において、
全体的な行為をとることが最高の芸術ではないでしょうか?



芸術家の洞察


詩は思考を用います。

音楽・絵を創造する時にも、思考を使います。

勿論、彼らは降ってくるインスピレーションや洞察から、
芸術を生み出しているのでしょうが、
その洞察は束の間のものです。

一方、生の芸術家の洞察は一過性のものではありません。

だからこそ生きることは、
あらゆる芸術の中でも最高の芸術なのです。


名前がどうしても思い出せませんが、
ある有名な画家は絵を描くとき、
一張羅を着て絵を描くそうです。

素晴らしい絵を描く人ですが、
教会やコンサート、デートでお気に入りの服を着て
出かける普通の人と何ら変わりません。

芸術家がその分野外においてはだらしなかったり、
ドラッグやアルコールといった快楽に溺れるなんてことは、
よくある話です。

このように専門外のことになると、だらしないにも関わらず、
素晴らしい芸術を生み出す芸術家は沢山います。

彼らの素晴らしい芸術は、
絵画や音楽といったある特定の分野に限られており、
彼らの生の全体が芸術的というわけではありません。

それどころか、芸術以外の生はカオスです

このような芸術家は珍しくありません。

彼らの芸術は、部分的なのです。



生きる芸術家


一方、生きることは最高の芸術です。

私のように素晴らしい芸術を生み出せない人でも、
芸術家であることは可能です。

美しく生きることは、芸術です。
誠実に生きることは、芸術です。
葛藤も混乱もなく生きる人は、芸術家です。

部分的な行為ではなく、
摩擦を生まない全的な行為をとるのは芸術です。

そのために必要な能力は何もありません。

楽器も筆もキャンバスも必要ありません。
努力も練習も技術も、不要です。

ただ思考の構造・思考の限界を理解し
必要な時にのみ思考を使います


思考を働かせずに生きる


必要なとき以外は思考を働かせずに、生きることです。

思考が働いていないとき、
『自己』という中心は存在しません。

誤解しないで下さい。
私もあなたも存在します。

私やあなたが消えてなくなるわけではありません。

そうではなく思考が静止しているとき、
私やあなたが『わたし』と呼ぶ自己がいないということです。

自己が存在しないとき
私たちは利己的ではあり得ません

自己が存在する時にのみ、
私たちは断片的で混乱しているのです。

ブログタイトルにもあるように、
私やあなたの『わたし』が利己的なのです。

あらゆる人の自己は、もれなく利己的です。



自己はいつも利己的


自己が決定する行為は、どれも利己的です。

自己を思考といっても良いでしょう。

自己がいつも利己的だから、
私たちはいつも孤独で寂しいのです。

自己が利己的だから私たちは部分的な行動しかとれず、
常に葛藤し混乱しているのです。



思考に基づく行為は混乱をもたらす


思考が静止するとき、自己は止みます。

そこには静寂があります。

自己のおしゃべりは止まっています。

思考が静止するときのみ、
全的な行動をとることができます。

いつものように私たちは快・不快によって、
行動を決定しません。

いつものように好き嫌いで、行動することはありません。

目標や理想などの観念を、追い求めることはありません。

それらは全て部分的な行為で、
思考が働いている時に起こりうる行為だからです。

思考が決定するいかなる行為も、部分的です。
思考が決定するいかなる行為も、不完全です。

故に、思考に基づく行為は混乱をもたらすのです。


思考が止むとき


思考が静止しているときに生まれる行為は、全体的です。

その行為は混乱をもたらしません。

その行為には秩序があります。

このように生きることが芸術です。
これこそ、最高の芸術なのです。

なぜならそれは音楽・絵画・建築といった
ある特定のものに限定されないからです。

あらゆる方向に開いているからです。




利己的な行為


繰り返しますが ...

『自己』という中心が存在するとき、
私たちの行為はすべて利己的です。

自分の成功・自分の稼ぎ・自分の生活・自分の家族と、
私たちは常に自分中心に物事を考えます。

その行為は常に利己的で分裂しており、
他者との衝突は避けられません。

理由は明白です。

誰もが同じように自分の成功・自分の生活と、
常に自分中心に考えているからです。

だから他者と必ず衝突するのです。

私たちは常に、自分という中心から物事を見ます。

この行為が、他者との間に壁を築きます。

『自己』が人を分つのです




最高の芸術家


中心である『自己』がいないとき、
私たちは周りで起こっていることをありのままに観察し、
理解することができます。

目の前の相手をそのままに理解することができます。

というのも批判したり受け入れたりする
『自己』がいないからです。

「これは好きだけどあれはちょっと・・」
「僕が思うにあの人は・・」
 と四六時中話しかけてくる『自己』がいなからです。

よって物事・相手をあるがままに見て、
理解することができます。

意見・知識・信念・結論といったものに固定されない、
縛られていない自由な精神は、
人生のあらゆる美を完全に味わいつくすことができます。

このように生きるなら美しい絵や詩、音楽を、
たとえ生みだせなくても、
私たちは最高の芸術家です。


秩序あるものは優しい・美しい


自己が不在の状態においてのみ、
私たちは互いを思いやり助け合って生きることができます。

このような生こそ、最高の芸術ではありませんか? 

アートの語源である自然に配置された秩序こそが芸術です。

完全なる秩序をもって生きることは芸術です

完全なる秩序は、最高の美です。

関連記事
自己・自我・私の中身
全体的vs.部分的な活動
正しい秩序ある全体的な行為
思考から自由な理性的・全体的な行為
思考が理解を妨げ空間が理解をもたらす
正しい行為は混乱が終わるとき生まれる
エゴを落とすと誰とも対立・衝突しない行為がとれる

このブログを検索

アーカイブ

自己紹介

自分の写真
真理探究に15年を費やした後あらゆる修行・規律・イデオロギーは不毛であると気づく。以来感覚だけを頼りに思考と感情を刻々と観察しながら自己について学んでいる

問い合わせ

名前

メール *

メッセージ *

QooQ