友人が話しているのを聴いている時、
あなたは次に何を言おうか考えながら聞いていませんか?
その時、あなたの思考は働いていませんか?
もしそうであれば、あなたは友人の話に注視できませんので、
完全に聴いていません。
知識・経験・意見という背景でもって人の話を聞くとき、
あなたは相手の言わんとしていることを
聴くことはできないのです。
背景がアクティブなとき、聴くこともありのままを
観察し理解することも、人と関わることもできません。
背景とは、あなたの思考です。
あなたの頭の中のおしゃべりです。
このブログを読みながら「この部分は同意できるけど、
ここは違うな」とあなたの背景が意見するなら、
筆者が言わんとすることを理解することはできません。
あなたの理解は常にあなたの背景の色で
染まっているからです。
同意や否定なしに純粋に聴くことが大事なのです。
完全に耳を傾けて聴くとは、どういうことでしょうか?
全体的に観察し事実を理解するとは、
どういうことでしょうか?
モーツァルトの音楽を聴いていて「この曲は好きじゃない」
と頭の中のおしゃべりが始まった瞬間、
あなたは完全に聴くことができなくなります。
評価・判断するのは思考であり思考が働くとき、
私達は例外なく耳を傾けることはできません。
道行く人々の表情や着ている服を「あの色は嫌い/好きだ」
「あの子は僕のタイプだ」「何故あんなにつまらなそうな顔を
して歩いているんだろう」などと決めつけることなしに、
相手をありのまま観察することはできますか?
いつも好き嫌い・快不快に基づいて判断してしまいますが、
判断した瞬間に私達の観察は終わるのです。
関連記事:色眼鏡を外してありのままに見る
目の前の花をラベンダーだと認識した瞬間
目の前の花を観察することができません。
認識は思考なしには起こらないので思考が働いた瞬間、
あなたの目に映っているのは目の前の花ではなく、
あなたが過去に見たラベンダーなのです。
思考というフィルターがかかるので、
あなたは目の前のラベンダーを見ることはできません。
職場にあなたの苦手な同僚がいます。
あなたは彼についての結論をしっかり持っているので、
彼をありのままに観察することはできません。
彼が他の人に親切にしているのを見ても、
あなたには上辺だけ優しい偽善者としてしか映りません。
ですので道行く人を背景なしに、
つまり思考の動きなしに観察できるか試してみてください。
試しにやってみると招いてもいないのに、
あなたの観察を思考がことごとく邪魔してくるのが
わかるでしょう。
同じようにこのブログを読むときも、
思考をはさまずに読んで下さい。
受け入れたり否定したりせず、ただ読んで下さい。
友人の話を聴くときも、相手の話に聴き入るのです。
モーツァルトの音楽を聴くときも、
その音楽に耳を傾けるのです。
その時にのみ私達は、ありのままを観察し理解し
人間関係を築くことができるのです。
そのとき内面を歪みなく観察し理解することができるのです。
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