筆者が以前ある団体にいたことは過去の記事で
申し上げた通りですが、ブログを読んでくれた
その団体の方からメッセージをいただきました。

そこには日常生活の基盤があってこその真理探究だ、
日常生活の基盤プラス真理探究なのだと記されていました。

その方が真理探究という言葉をどのような意図で
使っているかはわかりませんがこのブログで伝えていることは、
日常生活とかけ離れたことでしょうか?

筆者が探究という言葉を使うとき辞書の意味通り、 
ある物事の真の姿を見極めるという意味で使っています。




私達の一つ一つの行動に責任をもつこと、自らの思考を疑うこと、
思考の構造欲望の構造、自己中心性の構造を見極めること、
当たり前に行っていることに疑問を持つこと、
自らのあらゆる反応に気づいていることは、
日常生活においてのみ、人や物、自然との関わりを通してのみ、
可能ではないでしょうか?

勿論、生活するためには住居、食べ物、衣服が必要です。

しかし自分自身を理解しないなら、
あなたの基盤は何だというのでしょう?

自分という家の土台をしっかりとさせることが、
日常生活をおくる上で大事ではありませんか?




筆者の説明不足かもしれませんが、
筆者は「真理」を『探求』すること自体を真っ向から問うています。

筆者が『探求』というときは辞書の意味通りで、
物事を探して得ようと努めること、という意味で使います。

人が探求して見つけるものは常に既知のものであり、
真理は既知のものではないので、
彼の見つけるものは何であれ真理ではあり得ないのです。




あなたが探し物をしている時、
探している物を知らなければ見つけることはできません。

携帯がどんな形状をしているか知らなければ、
あなたはどのようにして見つけることができるのでしょうか?

同じように真理を知らないで、
どのようにして真理を見つけることができるのでしょう?

あなたが真理だと認識できるなら、
それはあなたが既に知っていたものです。

真理は未知のものであり、見つけられるものはどんなものでも
それは既知のものだから、何に到達しようと
それが真理であるわけがないのです。

書物を通して or 悟ったと言われる人達の体験談を通して、
既に知っていたものを体験したに過ぎないのです。


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また探求するとき、そこには必ず探求者がいます。

真理に到達したいという願望をもつ探求者が不在の時にのみ、
真実は花開くのではないですか?

願望があるところには常にそれを願っている「わたし」
という中心がいます。

ですから筆者は真理を探求すること自体を、問うているのです。




そしてあらゆる霊的権威・スピリチュアルな権威を
真っ向から問うています。

人が何かに従う時はいつでも、彼は自由はありません。

自発的に受け入れているのだから、
自分は自由だと仰るかもしれません。

しかし真理に達したいという願望がなかったら、
あなたは権威を受け入れましたか?

願望が行動を決定する時はいつでも行動は限られてしまうので、
あなたは決して自由ではないのです。

ゆえに霊的権威は自由を破壊し、自由な観察を妨げます。


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霊的権威はまた、私達を依存させます。

私達はそれなしでは、一人で立つことができなくなります。

何をすべきかという指針なくして、行動できなくなるのです。

依存は恐れ、不安、執着をも生み出します。


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霊的権威は分離も、生みます。

知っている者と知らない者、実際の自分とあるべき自分、
自分とグル・聖職者・僧という分離を生みます。

分離は、葛藤・対立・嫉妬・不満・比較をもたらします。


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このように霊的権威の性質を理解する時、
あなたに洞察が生まれます。

その洞察が、あなたをあらゆる霊的権威から解放します。

そのとき精神はなににも縛られていません。

一人で立つことの大切さを自覚した精神はもはや、
眠ってはおらず目覚めており機敏でエネルギッシュです。




霊的権威に従っていたとき、あなたの行動や観察は
ある一定の方向に限られ葛藤や依存や恐怖、不満や嫉妬に
エネルギーを浪費していましたが今やそれらにエネルギーを
費やしていないので、エネルギーに満ち溢れています。

このエネルギーが、全注意を可能にするのです。

あなたが全方向に気づいていることを、可能にするのです。

この全注意があなたの「中心」を取り除くのです。

『中心』が取り除かれたとき、
未知なる真理の花が咲くのではないでしょうか?

努力や訓練・鍛錬によって得られるものでも、
何かの規律や権威に従うことで得られるものでもなくて、
ありのままの自分自身から離れることなく
真っ向から向き合う時に花開くのです。



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真理探究に15年を費やした後あらゆる修行・規律・イデオロギーは不毛であると気づく。以来感覚だけを頼りに思考と感情を刻々と観察しながら自己について学んでいる

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