全体的な観察と利己的な思考

2019/03/01

気づき 観察 思考 利己的な私

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選択と批判


私たちは日々、沢山の選択や批判をします。

『あの人の着ている服、私好みだわ』
『あの人。格好良い!服のセンスはイマイチだけど』
『彼女、タイプ』
『彼女、若いのに知的で驚いた』
『この店員、感じよくないな』
『この人と相性いいかも』


混乱や分離をもたらさない選択


物を買うときには選択します。

洋服を買う時には、生地の肌触りや色など
自分好みの服を選んで購入します。

これは当然です。

必要な服を手に入れるためには必要な選択だし、
選択がもたらす悪影響はありません。

しかし、人を評価したり批判する場合、
あるいは自分の行動を選択する際に、
私たちが通常行う選択は、
分離や混乱をもたらします。


頭の中のコメント


あなたが人と目が合うときに、
あなたの頭のコメントは必要でしょうか?

すれ違う人の姿を目で追いかけて、
相手の顔やファッションや態度を、
チェックして判断することはありませんか?

私たちは無意識に、相手を上から下まで一瞬で見て、
何かしら頭の中でコメントしています。

このようにしている限り私たちは、
相手を正確に見ることはできません。

頭の中のコメントが
あるがままの観察を邪魔するからです

あなたの主観的な思考が観察を邪魔するからです。

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動機や願望のない自由な観察


コメントなしの観察


頭のコメントなし(思考なし)で相手を観察できますか?

道行く人や上司、同僚、友達を、
批判や賞賛なく、ただ観察することはできますか?

彼らの全て〜表情や服や感情 etc〜に注意を払いつつ、
コメントを挟まずに観察することができますか?

「今日の上司の格好、ダサい」
「今日は不機嫌そう」
「化粧濃い〜」

なぜこんなことを言うかというと、
コメントした瞬間に私たちは、
相手に全的に気づいていることはできないからです

私たちは頭のコメントに気を取られて、
相手を曇りなく観察することができません。

コメントしながら相手を主観で見ることはできますが、
コメント全体的な観察は両立しません。

ですから主観による観察は、
全体的ではなく部分的な観察です。

つまり部分的な観察ではありのままの相手の姿を、>
見ることはできません。


主観による気づき


あなたが自転車に興味があるとします。

あなたは自転車に敏感に反応するので、
自転車に十分に気づいていることができます。

しかしあなたは自転車と同じようには、
車に気づくことはできません。

あなたの興味の対象は、自転車だからです。

これが主観による気づき・観察です。

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全体的な気づき


全体的な気づきとは、
あらゆることに気づいていることです。

好き嫌い・興味や関心の有無で選ぶ、
「わたし」はいません。

あらゆるものに無選択に気づいています

このように全てに気づいているとき、
私たちは相手をありのままに観察し、
理解することができます。

全体的な気づきでは、
主観による気づきに存在する、「わたし」はいません。

コメントの発信者が不在なので、コメントもありません。
コメント=批判・賞賛・選択はありません。

つまり全体的に気づいているとは
思考を介さず観察することです

取捨選択する「わたし」がいるときの気づきは、
常に部分的で主観的な気づきと言えます。


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主観的な気づきと全体的な気づき


二つの違いを理解できましたか?

簡単にいうと主観的な気づきには方向があり、
全体的な気づきには方向がありません。

主観的な気づきは自分の好き嫌い・快不快によって、
見たいものや知りたいことが決定されますが、
全体的な気づきには決定する自己が不在なので、
全方向に気づいています。


思考からの自由


無選択に気づいているとき、
私たちは思考から自由です。

主観的な気づきは自己が活発なので、
自己そのものである思考は作動しますが、
全体的な気づきには、自己が不在なので思考は止みます。

無選択に気づくとは、全体的に気づいていることであり
あらゆるものに完全に気づいている時にのみ
思考から自由になります

思考から自由であるときに、
私たちは相手をありのままに見つめることができ、
理解することができます。

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思考から自由になることで生まれる行為


チューニングされた太鼓が明瞭な音色を出すように、
思考から自由になり空間が生まれた鋭敏な脳は、
どのような状況にも的確に素早く反応します。

思考から自由な行為には、
思考に決定される行為のように偏りがないので、
衝突や混乱を生むことがありません。

思考から自由な行為は全体的なので、
それは秩序をもたらします

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正しい行為は混乱が終わるとき生まれる
思考が理解を妨げ空間が理解をもたらす
思考・過去・自己から自由な純粋な観察
正しさがわからないのは事実を見つめていないから
エゴを落とすと誰とも対立・衝突しない行為がとれる

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真理探究に15年を費やした後あらゆる修行・規律・イデオロギーは不毛であると気づく。以来感覚だけを頼りに思考と感情を刻々と観察しながら自己について学んでいる

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