思考に基づいた行為が、常にバラバラで不完全で矛盾していることは、
これまで話してきた通りですが、殆どの人が行っている瞑想も
思考に基づいたものではありませんか?
思考は知識や記憶に基づいており、知識や記憶が限定されたもので、
ある以上、思考は常に限定され断片的だということは、
これまで一緒に調べてきた通りです。
このような思考が「悟りたい、真理に到達したい、神に出会いたい、
偉大な経験をしたい、瞑想して愛を得るのだ、
瞑想して意識を広げるのだ」と主張します。
「何者かにならなければ、幸せになるために〜をしなければ、
成し遂げなければ」と思考が私たちに行動を促すことと同じように、
思考は瞑想をして幸せを手に入れようとしますが、
断片的な思考に基づく行為は常に混乱しています。
また瞑想とは思考と全く関係のないものですので、
思考に基づく瞑想は瞑想ではありません。
しかし方法を探して求める人の数だけ
方法を提供する人は存在するもので、
私たちは望みを叶えてくれると主張する指導者に出会います。
彼らは瞑想法を教えマントラを授け、守るべき規則を指導します。
騙されやすい私たちは彼らの言葉や瞑想法に疑問を抱くことなく、
疑うことなく実践します。
こうしてインドやチベットから持ち帰った瞑想法を、
あなたは実践しているのではありませんか?
あるいは魅惑の地で修行した人から、
教わったのではありませんか?
「悟りたい」と思ったあなたは、インドまで行ってしまいました。
あなたの思考が、あなたをインドまで向かわせたのです。
思考の別の形である願望が、瞑想法、指導者を
受け入れたのです。
「悟りたい」と願ったあなたの願望が、
権威を受け入れたのです。
あなたは瞑想することで、気分良くなるかもしれません。
瞑想をしている間、心が静かになるのを感じるかもしれません。
何らかの経験をするかもしれません。
しかし目的地に達するために念入りに検討され、
編み出された瞑想法は思考の産物であり、
思考が関わるものは瞑想ではありません。
瞑想は、思考とは全く関係のないものです。
誰かの敷いたレールに従うことは、瞑想ではありません。
何かを求めて実践することも、瞑想ではありません。
蓮華座で座ってマントラを唱えることも、
瞑想ではありません。
指導者に従って瞑想すること、
何らかの瞑想法で実践すること、
目的をもって瞑想することは、瞑想ではないのです。
ここまで読まれた方は「では瞑想とは何なんだ」
と問うかもしれません。
その答えを見出すためには、
思考と願望の構造を理解しなければなりません。
瞑想の背後に願望が隠れていることを理解し
思考〈願望〉の構造を理解してその残滓を片付けるとき
あなたはこれまでとは全く異なる瞑想に出会います。
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