質問
善悪が人間の概念なら
何を信じればいいのですか?
正しさはどこにあるのですか?
観察が正しさへと導く
事実を歪みなく見つめていたら
何かを信じる必要などあるでしょうか?
物事が起きるときにそれに出会い
その本質を見極めて応答する..
これこそ正しい行為ではないですか?
あるがままの事実を観察すると
正しい行為は明らかになります
正しさはその時になってみないと
わからないのです
というのは現在という瞬間は
いつも違うので「これが正しさだ!」
と断定できるものはないから!
もしそのようなものがあれば、
現在という瞬間は静止している
ことになりますがしかし
現在は刻刻と変化しています
変化するもの、生きているものに
特定のパターンは通用しません
特定のパターン(死物)で応答しても
その応答は適切ではありません
※『パターン化された心』
を併せてお読み下さい
あなたが意見や観念で
心という鏡を覆っていると
動きゆく瞬間の一つ一つの姿が
その上に映らないので
現在にふさわしい行動はとれません
絶えず移りゆく生は
私たちに毎日毎分毎秒
新しいアプローチを要求しており
それに正しく応答するためには
観念や信念で曇っていない
透明な目が必要です
正しさはどこにある?
『真実と事実』の記事でお話し
しましたが真実とはあるがままの
事実を知覚することであり
正しさも同様です
正しさはあるがままの事実の中にあります
死物には死物で対応可能ですが
生に死物(概念)で対応すると
生とあなたの行為との間に
ズレが生じます
というのは生は死物と
同じではないからです
同じならズレはないので
あなたの行為が混乱をもたらす
ことはないのですが...
死体解剖によって知り得た知識と
生きている人間の体を切開した時に
見るものは同じではありません
教科書通りマニュアル通りでは
通用しません
生きている人間の身体を
しっかり観察しなければ
適切な処置をとることはできません
同じように概念は死物であり
正しさについてのイメージや観念を
あなたがどれだけもっていようと
特定の型にはまった行為で
現在に適切に応答することは
できません
生には生で応答しなければ
なりません
動には動で対処しなければ
なりません
生はあなたに即座の行動を
求めています
ですから生に応答する
決まったマニュアルはありません
聖書や哲学書の中にもありません
道徳や倫理、聖書や仏典の教義や
規律、思想は正しさではないのです
「〇〇が正しい行いだ」と
言った時点でそれは
正しい行為ではありません
正しいこともすべき・すべきでない
というのも部分的なあなたの知識や
経験によって主張された思考の運動
に他ならないことがわかると
思考は静まり概念は消え
あなたは事実と向き合います
こうしてあなたが...
あるがままの事実を見つめるとき
思考に支配されない正しい行為が
明らかになります
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