部分的観察が分離・衝突・対立を生む

2019/06/12

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部分的観察は、全体的観察とは違います。

数人の盲人が象の一部だけを触って、
感想を語り合うという、
部分的観察について、
上手く説明してくれる寓話があります。


 象の一部分を触って、
 「長い鼻を持つ動物だ」という人、
 「大きな耳をもつ動物だ」という人、
 「細長いロープのような尻尾をもつ動物だ」という人、
 「ザラザラしてとても固い動物だ」という人がいます。

部分的観察は分離・対立を生む


象の一部を触った人たちで語り合っても、
話がかみ合うはずはありません。

そもそも彼らは同じものを、
触ってはいないからです。

単純なたとえ話だと理解できますが、
私たちのコミュニケーションの殆どが
こんな感じでちぐはずであることに、
私たちは気づいていません。

部分的観察が理解を阻む


他の人が自分と同じように、
物事を見ているという前提で話をしますが、
自分自身の観察が部分的であることに、
気づいていません。

始めから同じものを見てないから、
各々の認識が異なるのに、
互いの認識のギャップを埋めようと、
さらなる話し合いによって、
解決しようとします。

しかし認識の違いは、
部分的観察が要因の一つだと気づけば、
不毛な議論は終わります。

部分的に観察するかぎり、
私とああたが理解し合うことはありません。

あなたと私が、真に出合うことはありません。


全体的な観察は対立しない


では私たちが全体的に観察したらどうでしょう?

物事をまるごと観察するなら、
それぞれの観察が食い違うことはありません。

勿論、私たちの目が狂っていないことが前提です。

精密な顕微鏡のように鋭い目を、
私たちがもっていることが前提です。





全体的に観察することは大事です。

なぜなら全体的観察なしに、
私とあなたが同じ物を見ることはできないからです。

同じものを見ていなければ、
相手ののことを理解することはできません。

全体的観察が、私とあなたを結びつけるのです。


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思考が静かなときのみ、全体的観察は可能


全体的に見るためには、
思考は静かでなければなりません。

同じものをそのありのままに見るには、
私たちの思考は止まねばなりません。

私が特定の観念や結論に囚われていたら、
物事をありのままに見ることはできないので、
あなたと理解し合うことはできません。

ですから全体的観察を阻むもの全て、
〜観念・概念・信念・偏見・思想〜
を手放しましょう。

これまで大事にしてきた指針を、
すべて捨てましょう。


分離の消滅


「わたし」を構成するものを取り払ったとき、
私とあなたを心理的に分つものは、
何一つありません。

そのとき争い・葛藤・努力・願望・議論
はすべて止み、静寂が訪れます。

この静寂さが物事をあるがままに観察し
その本当と噓を見抜くのです。

全体的な観察においては、
思考の入り込む余地はありません。

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☆☆

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真理探究に15年を費やした後あらゆる修行・規律・イデオロギーは不毛であると気づく。以来感覚だけを頼りに思考と感情を刻々と観察しながら自己について学んでいる

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