知識は感覚器官と感情にどような影響を、
及ぼしているのでしょうか?
私たちは知識豊かな人を尊敬します。
メディアにおいても知識人・文化人という枠で
彼らは活躍しています。
知識とは私たちの脳内に記憶として貯えられた
言葉や情報、概念です。
いうならば頭の中に沢山の書物が
ぎっしり詰まっている状態です。
そして知識を蓄積すればするほど、
感情は衰退し感覚は鈍くなっていきます。
知識が人を鈍感にする
私たちは知識をもつことで本当に、
鈍感になってしまったのでしょうか?
貧しい人が悲惨な状況にあっても、
それはどこか遠くで起こっている出来事であり、
自分とは無関係なことだと思って
彼らの悲しみを感じたりはしません。
心を痛めたとしても、
出来事が起こった背景や原因について、
自分の知識を総動員して考え、
自分には何もできないのだという、
結論に至って終わりです。
自然の美しさを見ても感動しません。
私たちは考え事をしながら自然を見ます。
それはいつも当たり前にあるので、
あまり気に留めません。
木々の葉や花は光によって、
その美しさを変えまし、
朝日を浴びている花の色は、
夕方にみるそれとは違います。
しかし知識は花を見て認識した瞬間に、
それは図鑑で見た花と化し、
目の前の花を見つめることも、
その美しさを感じることも、
もうできません。
知識が観察を邪魔するのです。
所有・蓄積と利己心は比例する
知識がいっぱいに詰まった精神は、
毎日大きな荷物を背負って歩いている旅人のように、
重荷を背負っているために、
遠くまで歩くことができません。
知識を蓄えているあなたは、
物を蓄える人や経験を積もうと頑張っている人、
財産を築き上げる人と何ら変わりません。
そこには求める「中心」がいます。
この「中心」求めるものが違うというだけです。
そして中心が行う行為はどれも利己的です。
このように知識を蓄積する行為は、
中心である自己を強化するので、
私たちの利己心は強くなっていきます。
自分自身のことが気になり始めると、
自分以外のことに関する愛情は失われ、
他者や自然や動物に対する関心は薄れゆき、
精神は硬化してしまいます。
知識は発見を不可能にする
知識を蓄積していては、
あなたは新たなるものに出会えません。
知識は過去のものであり、
知識というものさしをもって
生きているもの〜未知〜を明らかにしようとしても、
あなたの観察は過去に根ざしているので、
新たなるものに出会うことはできないのです。
ですから知識はあなたという常に変化し続ける存在や、
未知である現在を発見することはできません。
既知は既知のものしか認識できないので、
そこに発見はありません。
あなたがそこで見出すものは全て既知であり、
それは発見ではないからです。
発見とは刻々のものであり、
知識がこの発見を不可能にしているのです。
既知そのものである知識でもって、
未知である現在を捉えるとはできないし、
理解することもできません。
知識の正体を理解すると知識から自由になる
現在に対する知識、未来に対する知識を、
持つことはできません。
何かを知った瞬間、それは過去になるからです。
自分自身について理解するため、
大切な人と良い関係を築くために、
心理学や哲学、人間行動学や社会学を学んでも
あなた自身や大切な人の心情という未知のものを、
知識で理解することはできません。
生の刻々を発見するためには、
あなたは知識から自由でなければなりません。
知識から、書物から、宗教から、
専門家から、そして自己から....
こうして知識について調べる中で、
知識の虚偽をあなたがはっきりと見るなら、
あなたは知識を必要な時にのみ、
使うようになります。
この自発的な気づきが、
知識を最もふさわしい場所に置きます。
そのとき知識が今のように、
重要になることはありません。
知識を過大評価するという、
現在のような状況は起こらないでしょう。
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