私たちの知っている愛は本当に愛ですか?



私たちは寂しさや孤独を感じたくないので、
安全や満足・安らぎを与えてくれる人を求めます。

恋人が心の穴を満たしてくれると信じて、
相手に夢中になりそして依存します。

しかし相手もまた彼自身の孤独から
自分を愛し支えてくれる女性、
性欲を満たしてくれる女性を探し求めているのです。

自分の満足が、恋愛関係の根底にあります。

これを私たちは愛と呼んでいますが、
この相互利用が本当に、愛でしょうか?





利己的な願望は愛ですか?

安全でいたい・愛されたいという願望は、愛でしょうか?

依存/執着することは、愛の一部ですか?





利己的な感情



私たちが愛と呼んでいる感情も、
相手が自分を満たしてくれなくなると、終わりを告げます。

あるいは生活を保障してくれる相手と割り切って、
愛情がなくなっても、恋愛関係を続けます。

そして相手に好きな人ができると、
憎しみや怒りの感情で一杯になります。

相手を愛しているからというよりも、
守ってきた安全が揺らぐことへの動揺や不安が、
憎悪や嫉妬、怒りとなってあらわれるのです。


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愛は憎しみを生む?



愛から怒りや憎しみは生まれますか?

自らの空しさや孤独感に蓋をするために、
手に入れた『恋人』に、私たちは執着し依存します。

恋人にくっついている間は、
虚しさや孤独を感じなくてすむからです。

そして恋人が離れようとすると、
今度は激しい怒りや憎しみ・嫉妬に狂います。

しがみつくものを失うからでう。

この全てが愛ですか?





なぜ愛を求めるの?



愛のない者だけが、
外に愛を求めるのではありませんか?

お腹が満たされているときには、
食べ物を必要としないように、
内部に愛があれば、外に愛を求めることはありません。

ではなぜ、愛がないのでしょう?

なぜ空しさや寂しさや孤独感に、
私たちは襲われるのでしょうか?


なぜ愛されることを、願うのでしょう?
     




願望を調る



愛されたいという願望の奥に何があるのか、
深く追究しなければなりません。

内部を深く調べ観察するとき、
観察したものから目を背けないとき、
心のうずきは止まりませんか?

母を求めて泣く赤ん坊のように、
内部の空しさや孤独感は、
私たちの愛情を必要としているのではないでしょうか?

私たちの注意を喚起しているのではないですか?

だから心の叫びに耳を傾けて、きちんと応答するとき、
その疼きは止まって、愛が湧き出てきます。

その泉が沸き出るとき、
あなたが今愛と呼んでいる感情とは
全く別のものだということがわかります。



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真理探究に15年を費やした後あらゆる修行・規律・イデオロギーは不毛であると気づく。以来感覚だけを頼りに思考と感情を刻々と観察しながら自己について学んでいる

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