私たちは「ありのままの自分」より
「なりたいたい自分」に夢中です
事実より概念に夢中なのです
事実より概念が大事なのです
ありのままの自分(事実)を観察するより
理想の自分(概念)を追い求めています
混乱した心が秩序を求める
内部の混乱を見つめることなく
人は外から秩序を持ってこようとします
混乱の原因を究明するかわりに
生徒をルールで縛るように
私たちは外から圧力を加えます
相反する意見や欲望が対立して
混乱する心を直視するかわりに
道徳や思想という鋳型に自らを
溶かして心を秩序立てようとします
※『部分的行為は混乱をもたらす』
『刻々と変化する生とパターン化された心』
心の叫びを無視して幸せを求める
惨めさや寂しさ、孤独で一杯な心を
そのままにして人は幸せや喜びを希求します
寂しさを取り除いてくれると信じて
それらを追い求めます
寂しさがどのように生じたかを理解しようと
しないで寂しさを埋めてくれると信じて
恋人や愛を探しています
愛だと思い込んでいる気持ちが
自分のことを大切にしてくれる
人への好意だという事実を見ずに
『自分』を大事にハッピーに
してくれる相手を求めています
愛と呼んでいるものの正体が
単なる自己愛であることに
気づかず愛を求めているのです
※『本当の愛とは?』
『愛されたいという願望』
概念を追い求める自己
あるがままの自分のことを理解しないで
概念を追いかけているのが現在の
殆どの人のありのままの姿です
しかし求める幸せや喜び、
愛や自由はあるがままの心を
見つめるときだけ手にできる
ものだとは知らないようです
私たちがこれらを求めるとき
実際は何をしているかと言うと
求めているものを閉め出しているのです
幸せを追い求めるとき、あなたがいつも
「わたし」と呼んでいる自己が真ん中に
どっしりと座っていてこの自己が
幸せを強く求めています
しかし....
自己が不在のときにあらわれるのが
秩序・幸せ・愛・自由なのです
自己が何かを要求しているあいだは
掴めなので求めるという行為が
結果的には締め出しているのです
※『自己が止むとき美は現れる』
混乱が止むと秩序は生まれる
秩序は混乱が止むとき、生まれるのであって
混乱した心のまま秩序を求めても
混乱はさらなる混乱を生み出します
同じように愛は利己性が終わるときに
現れるものであっていつまでも
自己中心的に行動していては
永遠に出会うことはありません
自由も一緒です
自由を奪っているものを手放すことで
あなたは自由になるのであって
縛っているものに執着しながら
自由は手に入りません
※『心の混乱を取り除く』
ですから心の混乱を、あなたの利己性を
しっかり見つめましょう
あなたから自由を奪っているものは
何かを、ハッキリさせましょう
意見、信念、理想、知識、イメージ、依存、執着
恐怖、欲望などがあなたを不自由にしていないか
行動を狭めていないか、調べてください
というのは根本的な変容は
事実を曇りなく見つめるとき起こるものだからです
※『心は理解するとすっかり変わる』
『心の混乱を取り除いて平和な世界を築く』
『あなたを束縛しているものを手放そう』
概念は自由を奪う
私たちは美しいものについては積極的に
見たり聞いたり考えたりしますが
醜いものにはすぐ蓋をし目を覆い隠し
耳を塞ぎます
心についても同じ反応をします
心は醜いもので溢れているから
背けることはあってもじっくりと
見つめることはありません
正直になりましょう
私たちの心は醜い感情がウヨウヨしています
ですから心は醜いという事実を直視しましょう
内面を見つめないと醜いものはなくならないし
美しくなることもないのです
※『あるがままに見つめるとは?』
『心には神が宿っている』というような
概念が希望を与えてくれるとしても
概念に縛られた心は決して自由ではありません
概念や知識という重荷を背負っていると
自由に軽快に歩くことはできません
それは窮屈そのものです
また...
概念という色眼鏡を挟んで見るかぎり
自分のこと、他者のこと、また
世界の出来事の本質を掴むこともできません
※『物事の本質について』
『物事の本質を掴むと...』
『概念を捨ててありのまま見つめる』
事実は対立しない
意見や思想は対立しますが、事実は対立しません
あなたと私が事実を見ることができれば
同じものを見ることができるので
私たちがぶつかることはありません
同じものを見れているときには
そこに意見の一致不一致はありません
※『意見は対立を事実は理解を生む』
事実にとどまる
事実から離れるとき、対立は生まれます
事実にとどまるとき、対立は生まれません
だから事実にとどまりましょう
そうすれば私たちは誰ともぶつからないし
心の中が混乱して葛藤することもありません
心に生じた感情を批判したり受け入れたりせず
青い空を見るように見つめてみてください
※『事実にとどまる』
『気づき・アウェアネスの大切さ』
純粋な観察とは愛すること
思考を介さず見つめるとは、愛することです
思考の運動のない観察に「わたし」という
自己はいません
主張する自己が不在のとき
人はようやく目の前の相手と
ほんとうに関わることができます
イメージや過去の言動という記憶を介さず
~これは思考が作動しないとき可能~
相手を見ることができるので
真に関わり理解し合うことができます
思考の動きの一切ない観察は
事実を歪ませる利己性が邪魔しないので
物事をありのままに、つまり全体的に
観察することができます
好き嫌いや快不快(←思考の運動)によって
物事を判断するようなことはありません
※『気づき・アテンション』
『部分的観察 vs. 全体的観察』
思考に汚染されず純粋に観察するとき
人は愛や自由、秩序といったものに
出会うことができるのではないでしょうか
偏見も恐れもなく無防備で、
ただ相手への興味や好奇心から
躊躇なく手を伸ばす赤ん坊のように
人と関わることが大切です
部分的ではない全体的な観察が..
主観・自己・利己心・思考を落とした観察が
唯一、本当の関わり合いを可能にします
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