思考を挟まないで事実を見つめる

2019/06/28

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私たちが事実と向き合うことは、殆どありません。

起こった出来事をそのまま注視するかわりに、
自分の都合のいいように解釈して
理解した気になるのが常です。




例をあげてみましょう。

私があなたを傷つけたとします。

私の言葉や態度に意識を向ける代わりに
あなたはこのように解釈します。

「虫の居所が悪かったんだろう」
「何か嫌なことがあったに違いない」
「病気だから仕方がない」
「両親に愛されずに育ったから可哀想な人だ」...

このように自分なりに解釈して、
物事をポジティブに捉えた気になりますが、
寛大に対処した気になりますが、
それは事実ではありません。

それはあなたの解釈であって、寛大でいたい、
人を批判するのは良くないと思っているあなた、
人を批判しないことに決めているあなた
から生まれた解釈です。

反対に「なぜそんなことが言えるんだ」「あり得ない」
と私を批判するかもしれませんがこれもまたあなたの反応で
どちらの解釈・結論も事実ではありません。

それはあなたの勝手な解釈であって、
勝手に結論に至ってしまったわけです。


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     結論は探究心・好奇心を殺す




都合のいい解釈をするのではなく
事実を注視することが大切です


相手に何か言われたときには、
相手の言葉や態度を注視します。

そこにあなたの解釈をはさみません。

つまり、あなたの思考を働かせません。

するとあなたは、その真偽を見抜きます。

思考を挟まないときのみ、
あなたは事実をありのままに見つめることができるのです




相手の言動は優しさ・親切心の欠如の表れなのか、
あなたを打ち負かしたいという思いがあったのか、
故意に傷つけようとしたのか、
あるいは、相手は事実を述べただけなのに
あなたは事実に傷ついただけなのか、
見抜くことができます。

見抜くことができるのは、
あなたが解釈しないとき、
つまり思考を挟まないときだけです




「老けたね」「バカだね」「意地悪だね」と言われたとします。

その言葉をよーく注視しそれが事実だとわかれば、
あなたは何も反応することはありません。
何も傷つくことはありません。

相手が事実を言っただけなら、
あなたは何も反応することはないのです

「なんて酷いことを言う奴だ」「失礼極まりない」
などというのはあなたの解釈で事実ではないのです。

事実と向き合うときにのみ、
私たちはその真偽を見抜くことができます。





事実を注視して、相手が親切心のない人だとわかっても、
あなたは引き続き相手の言葉に対する自分の反応を、
観察することができます。

・どこに反応したのか
・どこにイラっとしたのか
・なぜ怒りを感じたのか

こうして自分の反応を注意深く調べていくと、
あなたは気づきます。

反応する時にはいつも思考が働いていることに




このことに気づいたあなたは、
相手の言葉に注意を払うようになります。

目の前に繰り広げられる出来事を、
注意深く観察するようになります。

なぜなら完全に注視するとき、
思考が働かないとわかったからです。

そして思考が働いていないとき、
あなたが傷つくことはありません。



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真理探究に15年を費やした後あらゆる修行・規律・イデオロギーは不毛であると気づく。以来感覚だけを頼りに思考と感情を刻々と観察しながら自己について学んでいる

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