最近の記事で概念について一緒に調べましたが、
下記のような意見をいただきました。

「私たちは一つである、私は真我である」という概念を
持つことで人に優しくすることが難しい時も
優しくできるので概念は役立っていると...

本当にそうでしょうか?

今回はこのことの真偽を一緒に探究しましょう。

以前の記事:「人類は一つ」「私は宇宙」というプロパガンダの危険




「私たちは一つ」と心から感じていれば、
あなたは人に優しいでしょう。

あなたにとってそれは概念ではなく事実なので、
このときあなたは概念を持つ必要はありません。

そのように感じているので、概念に縛られる必要はありません。

相手との間に分離を感じないので、
あなたは概念なしに優しさに溢れています。




しかし ...

あなたが「私たちは一つである」と感じていないとします。

感じていないけれども、あなたは本当だろうなと思っています。

この場合は、あなたにとってそれは概念です。

あなたは概念を、日常の様々な場面で活用します。

つまり過去という眼鏡をかけて、現在に出会うのです




苦手な同僚がいるとします。

彼のことをあなたはあまり好きではありません。

しかし概念が、冷たい態度をとりそうになる自分に
ブレーキをかけます。

既知である過去が、あなたに指示を与えるのです。

「彼と私の間に分離は存在しない、私たちは一つだ、
嫌いという感情を捨てて優しくしよう」

こうして葛藤は生まれます。

過去で現在を見ると必ずズレが生じ、
ズレは葛藤となってあらわれるのです。

あなたは彼が嫌いだと主張し、概念は優しくしろと命令します。

概念をもつことであなたは自分を、
ある型にはめこもうとするのです。

こうして努力が必要になります。

優しくない自分に鞭を打ち、優しくあろうと努力します。

しかしこのような精神は、ほんとうに優しいでしょうか?

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従おう、模倣しよう、順応しようとする精神は、
優しさに溢れていますか?

概念という鎖につながれた精神は、自由でしょうか?

自由に羽ばたくことができないとき、
優しさはどこかへ消えてしまいませんか?


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努力・葛藤・分離が生じるのは、概念を持つからです。

これは私たちが、あるがままから離れるときに生じます。

事実が対立物を生むことはありませんが、
概念は分離や葛藤を引き起こします。

ですから私たちが事実とだけ向き合うとき、
努力や葛藤と無縁でいられるのです。

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概念に従って優しくなろうとしても、
それは本当の優しさではありません。

思考によって念入りに作り込まれた優しさは、
優しさではありません。

優しいことと優しくなることは違います。

優しいとき、人は優しくなりたいとは思いません。

優しくなりたいと思うのは、あなたが優しくないからです。

ですから優しくなろうとするのは止めて、
ありのままのあなたを観察しましょう。

なぜ優しくないのかがわからなければ、
優しさが顔を出すことはありません。

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あるがままの自分を観察するとは、
自分のあらゆる反応に気付くことです。

感情の波、好き嫌い、快不快、人に対する態度 etc...
を正直に歪みなく観察します。

こうして、自分の中身を発見します。

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すると自分がどんなに冷酷で自己中心的な人間か、わかります。

それを否定したり正当化しないで、ただ見つめます。

思考を働かせることなく注視します。

この気づきが内部の冷酷さ・無関心・自己中心性を
取り除きます。

あるがままの自分を注視すると、
内部はようやく日の目を見て消滅するのです。

母を求めて泣き叫ぶ赤ん坊が母に抱かれた瞬間
ピタリと泣き止むように、丸裸にされた内部は沈黙します。

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内面は明らかにされるもので、
見栄えの良い概念で包み隠されてはなりません。

自己理解はこのように、内部が明らかにされたときに起こります。

概念に逃げ込まないで本当に自分の姿を見つめるとき、
情熱、正直さを伴う観察の炎が自己中心性を
すっかり焼き尽くすのです。

概念をもっていては、内面の非情さが止むことはありません。

概念は事実を歪めてしまうからです。




ですからあるがままの自分を観察し、
自分自身を明らかにしましょう。

自分を非情にしているものの正体を、見つめましょう。

そのとき、優しさは自ずと表れます。

観察は自己理解をもたらします。

つまり観察は、私たちを根本的に変容するのです。




概念が人を表面的に変えることはあっても、
根本的に変えることはありません。

ですからこれまであなたが築いてきたいい人の概念、
あらゆる概念を、手放しましょう。

こうあるべき こうすべし 怒らない 感情を出さない 
嫉妬や執着は良くない いつも笑顔で ポジティブに etc...

このように引っ切りなしに私たちに語りかけてくる概念に、
気づきましょう。

語りかけて来るのは私たちの思考で、
思考は条件づけられていることに気づきましょう。




正しく思えてもその声に気を取られると、
あなたは事実から離れてしまい歪みなく
観察することはできなくなります。

見ることで全体的な行為は生まれます。

生は常に変化しており刻々の変化への気づきが
全体的な行為を生むのであって、
道徳や哲学書、思考の指示通り特定のパターンに
従っている限り私たちの行為は機械的で断片的で
矛盾を生んでしまうのです。

見ることは即行うことです。

これが全体的な行為であり、
全体的な行為にはこのように思考の入り込む余地はないのです。

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脳の条件付けから瞬時に自由になる
理想を追い求めずありのままの自分を観察する
変容は内部から起こる・革命は内部から起こる
自我・自己・セルフが獲得・達成・一体化するもの

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真理探究に15年を費やした後あらゆる修行・規律・イデオロギーは不毛であると気づく。以来感覚だけを頼りに思考と感情を刻々と観察しながら自己について学んでいる

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