あるがままに見るとは?どうすればあるがままに見つめられる?

2020/07/27

気づき 観察 思考 理解 洞察 事実

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このブログでは事実を見つめることの
大切さについて日々お話していますが
その時によく「あるがまま」の事実と
いう表現を使います

「あるがまま」に見つめるとは
どういうことだろう
疑問を抱いている読者の方が
いらっしゃるかもしれないと
思いましたので今日は
このことについてお話します



『あるがままの事実/自分を見る』
 とはどういうことでしょう?

それは主観を挟まずに見ることです

あなたと事実の間に
思考を介入させずに見ること!



100人いれば100通りの見方が
あると言われますが
それは私たちが主観で
物事を見るからです

しかしもし私たち1人1人が
主観を落として見ることが
できたなら100人全員が
同じものを見るはずです

というのは真実がそうであるように
事実は1つだけだからです



あなたがこれまで頭に詰め込んできた
知識や価値観、常識や経験や信念
によってあなたは物事をあるがままに
見れなくなっています

医者や政治家、科学者や
宗教者、親としての見解を
私たちは一時も手放しませんが
それは非常に限定されたものであり
特定の立場から見ていては
物事を全体的に見ることも
理解することもできません

皆が皆、独自の色眼鏡をかけて
物を見ているから
事実を理解できないのです



私たちは医者・政治家・科学者
である前に一人の人間です

ですからあなたがかけている
眼鏡を外しましょう

フィルターを外して
~主観を落として~
あるがままに見なければ
事実を見ることはできない
ということを理解して
フィルターを外すのです

※『色眼鏡を外す』を併せて
  お読み下さい



しかし物事を全体的に見ること
あるがままに見ることが
私たちには中々できません

※『全体的観察とは
  を併せてお読み下さい

というのは見ている最中に
思考が茶々を入れてくるからです

私たちの注意が一瞬でも
事実から逸れると
思考はその瞬間を見逃しません



例を挙げましょう

※雨が降り出しました

思考はすかさずこう言います
『あーあー干した洗濯物が濡れる』
『今日洗濯するんじゃなかった』
『化粧が崩れて最悪』

このように思考は事実に
滑り込んできます

そして私たちの頭の中は
というとこれらの思考で
一杯になり雨の美しさに
十分に気づくことができません





※美しい花に出会います

あなたは一瞬その美しさに
魅了されますが
そのあとすぐに思考が
「この花の名前は何?」
と割り込んできます

あなたは花の名前を
思い出そうとしており
目の前にある花を
あるがままに純粋に
見つめることはもうできません



※怒りがふつふつと湧いてきます

怒りが込み上げるや否や
怒りを制御しようという
思考がすかさず働きます

思考が作動するともう
あなたは怒り(事実)を
見つめることはできません

あなたは必死に怒りを
コントロールしようとしているので
感情は見られることなく
その結果長いこと
心にとどまることになります



※腐敗した社会を見る

あなたの思考は事実を
「社会とはこんなものだ」
    とか
「人間なんて不純な生き物だ」
   などと言って
自分自身を納得させ慰めて
事実を直視しないので
なぜ腐敗したのかを問うことも
あなた自身は腐敗から自由なのか
を調べることもありません

このように私たちは事実を
自分達の狭い知識や経験で
都合よく捻じ曲げますが
主観を落とさないかぎり
あるがままに見ることはできないし
全体的な観察から生まれる
正しい行為というものを
とることはできないのです

だからあるがままに見ることは
とてもとても大切なのです

※『誠実に生きる』を併せて
  お読み下さい



見ることは行動することと
別々ではありません

※『見ることは自由であること
  を併せてお読み下さい

あるがままに見ることのなかに
正しい行為が何か見えてきます

※不摂生をしているときに
 鏡に映った自分の
 腫れぼったい顔を見て
 瞬時の行動が促されるように..

 

それは道徳や規律に沿った
行為とは全く違います

その行為は思考ではなく
観察から生まれます

道徳や規律に従う行為は
伝統という過去の鎖に
繋がれていますが
見ることから
生まれる行為は
一切の過去から自由です

見ることは即行うことなのです

※『洞察が瞬時の行動を生む
  を併せてお読み下さい



あなたが見るものは
一つとして同じものはありません

昨日見たものと今日見るものが
同じということはないのです

会社で毎日会う同僚も
昨日と全く同じではありません



見ることは常に新たであり
従ってそこから生まれる行為も
常に新たです

このように過去に染められない行為は
あるがままの事実を見るときのみ
とることが可能でありそれが唯一
混乱や葛藤をもたらすことのない
全体的で秩序ある行為なのです


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真理探究に15年を費やした後あらゆる修行・規律・イデオロギーは不毛であると気づく。以来感覚だけを頼りに思考と感情を刻々と観察しながら自己について学んでいる

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