友人と話しているときに、私が意見を持たないと言ったら
「意見を持つことは大事なことじゃない。
アウシュビッツの事実についてあなたはどのようにして、
意見をもたずにいられるというの?」と訊かれました。
ですから今回は意見について、
読者の方を一緒に調べて行きたいと思います。
意見とは何か?
私たちの意見は育った環境により、異なります。
「泣くことは悪いことだ」と言われて育った人は、
そういう意見を持つようになるかもしれません。
努力して豊かさを手に入れた両親に育てられたら、
努力しない人を軽蔑するようになるかもしれません。
あなたがモスリム教徒なら、
アルコールは忌み嫌うべきものであるかもしれません。
このように生まれた国や育った環境、信じる宗教、
受けた教育によって、異なる意見を持ちます。
意見は本当に必要?
意見は有益なものなのでしょうか?
人と人とを分つ意見は必要でしょうか?
あなたが意見を持っているかぎり
異なる意見の人と対立しませんか?
あなたの意見が私を切り離し、
そして互いの意見が喧嘩することになりませんか?
アウシュビッツの事実についての意見をもつよりも、
出来事の本質を見ることが大事ではありませんか?
意見はどんなに崇高なものでも単なる概念です。
そして概念は必ず、他の概念と対立します。
概念は人を対立させるのです
事実は対立を生まない
あるがままの事実を観察していれば、
対立することはないのではありませんか?
意見や偏見、固定観念をはさまずに、
起こっていることを観察するとき、
人が対立することなど不可能ではないでしょうか?
起こっていることがありのままに観察されるとき
正しい理解は生まれます
事実は対立ではなく、理解をもたらします
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異なる意見を尊重しようとする狭量な精神
「互いの意見を認め合おう、尊重しよう!」
なーんてことを言う人が沢山いますが、
そんなことを言う人は、
寛大になろうと努める狭量な精神の持ち主です。
これは綺麗事ではありませんか?
あなたはそのように言うことで、
相手を受け入れた気になるかもしれませんが、
あなたは心のシャッターを降ろしただけです。
心を閉ざすことが、相手を尊重することでしょうか?
「これについては意見が違うから、
これ以上話しても無駄だね、
でも君の意見を尊重するよ」と言うのは、
お互いを認め合っていることになるのでしょうか?
認め合おう、尊重しようというのは、
なんとも体のいいフレーズですが、
実際は意見を持つかぎり、そこには必ず分離が生まれ、
相手を理解することができなくなります。
意見をもつと認め合うどころか、
相手を理解することができなくなるのです。
ですからなぜ私とあなたは異なるのかを、
調べてみなければなりません。
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意見が関わることを邪魔する
あなたと私は友達です。
あなたは意見の本質を理解しているので、
意見をもたずに私と接しています。
一方、私は意見を手放していません。
私は意見が人を分つことを理解していません
意見の本質を理解していない私は、
「考え方なんてみんな違って当前」と言います。
一方、意見を持たないあなたからは、
このような発言は生まれません。
「考え方は違って当然」と言うことは、
私との間に壁を築くことだと、
理解しているからです。
意見を持つことの危険を見ているあなたは、
私の意見を無視できません。
なぜならあなたにとって私は大切な存在だから、
私に壁を築いて欲しくありません。
だから意見をもつことの危険性を、
私が理解できるように、
あなたは何度も私に説明してくれます。
しかしそれさえも私は「それがあなたの考えでしょ」
と突っぱねて、自分からあなたを切り離し、
意見が対立を生むことを、理解しようとしません。
意見を持つ者は他者と関われない
意見を持っている私は、
あなたと関わることはできません。
なぜなら意見やイメージを通してしか、
私はあなたを見ることができないからです。
イメージを通してあなたを見るので
あるがままのあなたを見れず
従って理解することはできません
だから私はあなたと関われないのです。
私が意見を手放さないかぎり....
では私が何と関わっているのかというと、
自分が持つあなたのイメージと、
あなたについての自分の意見と、関わっています。
つまり生身のあなたとではなく、
あなたの像〜冷たい概念〜と関わっているのです。
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一方、意見を持つことの危険を理解したあなたは違います。
意見やイメージが事実を歪めることを理解します。
意見が関係を破壊することを理解します。
だからあなたは、ありのままの私と接します。
あなたはありのままの私を観察できているので、
ありのままの私を理解することができ、
生身の私と関わることができます。
分離を受け入れる狭量な精神
しかし私が意見を持つことの危険性を見たら、
あなたと関われるようになります。
このときのみ「私」と「あなた」は、
互いに関係することができます。
意見が人を分つという事実を見ない者が
「考え方は皆違う」と言います。
事実を見れない人だけが、
「異なる意見を受け入れよう」と言うのです。
分離を受け入れるのは、既に結論に達した精神であり、
それは狭量で沈滞した精神です
意見を手放すと何が残る?
意見を手放すと、何が残りますか?
意見だけではなく経験や知識、理想や信念や野心、
人生のゴールという思考の中身一式を手放すと、
あなたには何が残るでしょう?
思考の中身一式を取り除けば、
内部において「私」と「あなた」に違いはありますか?
違いは何一つありません。
名前や肌・髪・目の色、背格好といった、
外見の違いが残るだけ..
つまり、私の内面はあなたの内面と変わらないのです
この発見はすごくないですか?
これからの生き方が大きく変わるくらいの、
大発見ではありませんか?
この事実をはっきり見ると、
人に対する接し方がガラッと変わります。
あなたの生き方がガラリと変わります。
他者との間にあった分離が、
すっかりなくなってしまうからです。
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