正しく生きるためには捨てるべきものがある
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これは2日前に投稿した記事タイトルですが
その内容に対して次のようなコメントをいただきました
~言ってることを頭で理解してもそれを踏まえて
どうしていったら自由になるのか苦戦してます~
これを受けまして本記事では【頭で理解する】とは
どういうことなのか、そして真に理解するとは
どういうことなのかを検証していきます
頭で理解することは部分的な理解である
頭で理解するとはどういうことでしょうか?
それは知的理解にとどまるということです
では知的理解とはどいうことでしょう?
知的理解とは概念として理解することです
概念として頭で理解するだけで
理解があなたの血肉とならないので
言動つまり生き方に変化が起こりません
これが質問された方が自由になれなくて
苦戦している理由です
知的理解は部分的であり全体的ではありません
心と頭がひとまとまりのあなたが
「理解したぞ」と言っているのではなくて
頭だけが「理解したぞ」と主張している状態です
心と頭はひとまとまりであるはずなのに
一体どうしてこのようなことが起こるのでしょう?
頭と心が分かれた理由
頭と心はなぜ分離したのでしょう?
この問いを調べる前にみなさんは頭と心が
分離している自覚はありますか?
自覚がないとこれからの探究には意味はないので
自覚することが最初のステップであり最も大切なことです
ですので自覚していただくためにここからは
皆さんの頭と心が分離していることを
できるだけわかりやすく説明していきます
あなたは肉体をもつ人間です
あなたは物理的には【ひとまとまり】です
しかしあなたの内面は頭と心に分かれています
なぜそう言い切れるのか?
それは頭と心が分離していなかったら
『頭で理解する』とは言わないからです
ではなぜ分離してしまったのでしょう?
それは頭だけが過剰に発達してしまったからです
これは科学技術の発展を見れば一目瞭然です
2000年前と今を比べてみてください
科学技術は急速に発展しました
この発達は知能によるものです
では知能(頭)がそうであるように
心は2000年前と比べて成長しているでしょうか?
答えは「ノー」ではないですか?
というのは過去も現在も人類は争い続けているからです
私たちは2000年たった今も苦しみを克服できてはいないし
憎悪からも自由ではないので過去を引きずって
戦争を繰り返しています
このことから、頭~知性~だけが異様に発達して
心がついていっていないことがわかります
頭だけが異常に発達したせいで
頭と心が分離してしまったのです
これで頭と心が分離していることを
理解していただけたと思います
知的理解とは頭だけの部分的な理解であり
あなたという1人の人間として全体的に
理解したわけではありません
変容は全体的に物事を理解するときに起こるものであり
頭という部分的な理解では起こらないわけです
頭で理解しても思考や行動が変わらないのは
こういう理由があるからです
99.9%の人の理解が行為に表われないのは
彼らの理解が全体的ではないからです
聖書や仏典にいくら精通していても
貪欲な心、意地悪な心はそれによっては変わりません
なぜなら知性は心を変えることはできないからです
知識と人間性は比例しません
というのは知識は思考と関係があり優しさや
思いやりといった人間の美しい性質を破壊するからです
では理解が行動に反映されるとはどういうことでしょう?
理解と行動が分離していないとは
一体どういうことでしょうか?
※『思考は優しさを破壊する』
理解は瞬時の行動をもたらす
たとえばあなたの家が燃えているとします
あなたはそのとき頭では理解しているけれども
何をしたらいいかわからないなどと言うでしょうか?
あなたは状況を瞬時に把握して即行動をとりませんか?
消防署に連絡するという瞬時の行動を促すのは
状況を素早く捉えたあなたの洞察力です
何が言いたいかというと頭での理解というのは
本当には理解していないということです
家が燃えている状況を一瞬で理解するような
理解ではないということです
理解が行動にあらわれないということは
あなたは私の記事を読んでそれを他の知識と同様
知識の1つとして頭脳に貯めこんだだけなのです
ここまで読まれて頭での理解が
真の理解ではないことがわかったら
あるがままの事実をしっかりと見つめましょう
心が自由ではないという事実を見つめる
燃えているのはあなたの家ではなく
あなたの精神・心です
自由を要求するあなたの心が
自由ではないことに悲鳴を上げている
という事実をきちんと見てください
あなたの意見・あなたの信念・あなたの理想
あなたの経験・あなたの知識・あなたの偏見
あなたの欲望・あなたの苦しみや寂しさが
心を束縛して思考が優位になり優しさから
遠ざかっているという事実を燃えている家を
見るように直視するとその観察が正しい行為へと誘います
※『事実を知覚するとは?』
『洞察が瞬時の行動を生む』
自由ではない心
意見・信念・理想に囚われているかぎり人は自由ではありません
なぜならあなたの意見・信念・理想があなたの行動を
縛るからです
過去~意見・信念・理想~に縛られたあなたは
決して自由ではありません
また思想や観念、主義主張や結論を持っているかぎり
自由ではありません
なぜならこれらもまた行動を指示・命令するからです
過去があなたが生きている【現在】を支配するので
あなたは過去から決して自由ではありません
※『パターン化した不自由な心』
依存した心は自由ではない
あなたが精神的に誰か or 何かに依存していたり
指導者・グル・哲学者の教えや概念を
オウムのように繰り返しているなら
あなたの心は自由ではありません
食べ物やゲーム・アルコールに依存している人が
依存物から自由ではないように恋人や教祖に
依存している人の心は自由ではないのです
特定の感情に囚われた心は自由ではない
また感情~怒りや憎しみ、嫉妬~に囚われているかぎり
あなたの心は自由ではありません
感情に囚われるということは感情が生じる思考に
囚われているということであり思考に捕まった心は
物事の本質を捉えることはできないのです
※『思考が止むと物事の本質は掴める』
自由な心を手に入れるには…
自由であるためには自由を阻むものをすべて
否定しなければなりません
否定し切ったときあなたの心は自由です
つまり自由でないものをすべて否定した先に
自由な心はあるのです
色んなものに縛られている己の心に気づいて
心を縛っているものを捨てることが
自由な心を手に入れるためには不可欠です
自由になるのを阻んでいるものを虚偽として
一掃しなければあなたは自由にはなれません
ただこう書くと自由になるためには時間が必要であるように
誤解するかもしれませんがそうではありません
内面に深く潜って1つずつ不要なものを片付けていかなくても
あるがままの心が過去というガラクタの総体であることを
知覚するとガラクタは霧のように晴れます
※『愛ではないものを否定することで愛は現れる』
真我が存在するという観念を落とす
もしあなたが心の奥には純粋な部分がある
~真我・純粋意識・アートマンが存在する~
という観念を信じていたら自分自身が
【過去の総体である】という事実を
見ることはできないので事実を知覚
するためにも全ての観念・信念を
落とす必要があります
あるがままの事実を事実として見るとき
その理解が心にあるものを一掃します
こうしてあなたは自由になります
※『意識を空っぽにする』
自由になるためにやること
自由になるためにやることは1つだけです
それはあなたは過去の総体であり
あなたの意識を構成しているのは
すべて既に終わったものであり
それが心をどんよりと曇らせている
という事実を見ることです
曇っている精神は事実を知覚する鋭敏さを
持ち合わせていません
いま私とあなたがここでしているのは
事実を知覚できるよう精神の曇りを取り除く作業です
自由とは思考~過去~から解放されること
自由とはあるがままの事実を見ることです
自由とは事実を知覚することです
思考を通して自由を手に入れることはできません
なぜなら自由を阻んでいるのは
他ならない思考だからです
自由であるためには思考が止まねばなりません
しかしそれはあなたがあなたの思考を
どうこうするということではありません
思考の構造を理解すると思考は静まる
思考をコントロールしようというのではなく
思考の構造を理解すると思考は静まります
思考が必要な領域と不要な領域を理解すると
これまでのように思考が持ち場を離れて
自分勝手に大騒ぎすることはありません
こうして思考は自分の持ち場の~勉強や仕事、
日常生活を送るために必要な記憶~範囲内で本領を発揮します
どういうことかというと思考が感情を強めたり
行動を決定することもなければ人間関係を
こじらせることもないということです
だから思考の構造を理解するだけで
あなたは葛藤や苦しみから自由になれるのです
思考が自身の立場をわきまえていると
物事の本質を思考の邪魔なく掴めるので
物事の本質を即座に理解することができます
頭のなかで思考が騒音を出していないときのみ
あなたは真に理解することができるのです
コメントをくださった方の理解が深まりますように..
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