A 愛ってなんですか?
愛とは百人いれば百の形があると思うので
一度自らの持つ概念や定義、感覚を解き放って問うてみるのも
愛について考える良い機会になるだろうと思っての質問です
私 自分が持っている概念や定義を抜きにして問うことは、
物事の本質を掴むためにはとても大事なことですよね。
だからこそ愛について描写することにためらいがあります
なぜなら私たちは愛をすぐに概念化してしまい
概念を追い求めがちだからです
愛という概念を追い求めることと愛することは違います
概念は愛ではありません。
あなたは百人いれば百の愛の形があると仰いますが
あなたとわたしが愛について持っている概念や考えを
すべて取り払って愛について真剣に調べるなら
私たちがつかむ愛が2つになることはありません
真理は1つの真理しかないように、愛は1つです
さまざまな白色は存在しますが純白は1つであるように…
A では質問します。
男女間の愛についてどう思われますか?
私個人としては男女間の愛は愛のベースなので
それは親子の愛より貴重です
私 親子の愛ははたして愛でしょうか?
男女間の愛は本当に愛ですか?
私が問うているのは、
殆どの人が愛だと思っているものが
はたして本当に愛なのかを問うています
親子の愛、男女間の愛は利己的な想いではないですか?
親は自分の子供だから、子は自分の親だから愛情を示しますが、
他人の子供や親には無関心ではないですか?
つまり親子の愛情は利己的な想いだということです
男女間の愛情も、自分の寂しさや空虚感を埋めてくれる人、
自分の欲望や願望を満たしてくれる人(学歴・外見・職業・財産)に、
殆どの人が好意を抱くので男女間の愛情も実は利己的なのです
ですから男女間の愛が親子の愛より上とかそういうことではなくて
私たちが愛だと思っているものは愛では決してなく、
非常に自己本位な思いだということがわかります
つまり自分の欲求を満たしてはくれない人に
殆どの人は愛情を感じないわけです
このように利己性に染まった感情が、
本当に愛と呼べるのでしょうか?
一個人に限定された愛情が愛でしょうか?
愛とはもっと全体的なもので
利己性のないときに存在するのではないですか?
A かなりご自身で愛を噛み砕かれた後がありますね。
愛=ボーダーレス、普遍
故に利己性を排す
具体的には人類愛や無償の愛を、
念頭にされておられるのかと思います
利己的な愛は認めないということですね。
私 認める、認めないの話をしているのではありませんし
愛を定義してもいません。
個人に限定されるものがはたして愛なのかを
純粋に問うているのです
A あなたは愛を高尚さとか本来あるべき愛の姿とか
何か重要な尺度を元にされているみたいですね
私 いえ、そうではありません
もしそうであれば私は愛についての概念を
手放すと言って手放していないことになります
愛の本質をつかむためには、
概念、尺度を捨てなければならないことは、
お互いに最初に合意したはずです
A 利己的な愛を愛から引くとすると、
神への愛のみが本物の愛ということでしょうか?
私はキリストや釈迦の愛と自分の愛を
比べたことはありません
私 キリストの愛、釈迦の愛について、
私たちは伝え聞いたことしか知らないため、
それがどのようなものであったかを
ここで話し合っても仕方ありません
あなたは私の言葉をすぐさま形(概念)にして
理解しようとしておられますが愛を
○○の愛と□□の愛に区別することはできないのです
また神の愛などといって人間の手の届かない高いところに
祭り上げても愛を掴む助けにはなりません。
A しかし利己的な愛を愛から引くと、
そのような愛は凡人には到底不可能なことのように思えます
私 不可能だという結論に達してしまうと
私たちはこれ以上探究することができません
ですから容易に結論に至るのではなく
辛抱強くもう少し先まで進んでみましょう
愛が概念化されてしまいそうなので
ここでちょっと個人的な話をします
愛だと思っていたものが愛などでは決してなく、
ただの利己的な感情に過ぎなかったことに私が気づいたとき、
ガツンと頭を殴られたようなショックが全身を貫きました
自分の寂しさを埋めてくれる人
自分に安らぎを与えてくれる人
自分を幸せにしてくれる人
自分の味方でいてくれる人、
自分のワガママを聞いてくれる人、
自分だけを見てくれる人....
このように私の中心にはいつもエゴがいて
自分のことばかり考えていたことに気づいたとき
私は己の利己性に愕然とし吐き気がしました
1度も愛したことなどなかったという事実に気づいたとき
私の〈自我〉は身動きがとれなくなりました
全ての行為がエゴから生じていたことに気づいたとき
エゴは身動きがとれなくなります
そしてエゴが静かなとき愛は現れるのです
A どうもよくわからないのですが、
異性を愛した
↓
彼しか愛せないと考えた
↓
彼だけ、だから身動きが取れない
とここまでは理屈に合います。
私 いえ、そうではありません。
私の中のエゴが身動きがとれなくなったのは
相手のためだと思ってしていたことの全てが
実は自分のためだったことに気づいたからです
私たちが意図してとる行為はどれも
エゴから生じることを悟ると
エゴは前にも後ろにも右にも左にも、
進むことができなくなって静止します
そしてエゴの運動がストップするとき
愛はあらわれるのです
A 愛は、不自由さからの脱却でしょうか?
すると普遍愛は限りなく人を自由にするもの、
そこまであなたは想定されているのですか?
絶対的自由愛に辿り着くのですか?
私 自由でなかったらそれは愛なのでしょうか?
愛はあらゆるものからの自由ではないですか?
嫉妬や執着・依存からの自由、エゴからの自由ではないですか?
道徳・概念・観念からの自由ではないですか?
利己性が止むときに人はようやく
愛に出会えるのではないですか?
愛は個人に限定されるものではありません
なぜなら限定されるものは自由ではないからです
また恋人を愛しつつ、誰かを憎むことはできません
というのは愛は利己性(エゴ)の存在しないときに
存在できるものでエゴの産物である憎しみと
存することはできないからです
A しかしそのような愛に触れることは可能でしょうか?
私 まずは私たちがこれまで愛だと思っていたものが
愛ではなかったこと、優しさだと思ってやってきたことが
自分自身が何かしらの快感を得るための利己的な行為で
あったことを理解しなければなりません
ここに気づかなければ、エゴが止むことはないので
愛に触れることはできません
おぞましいほどの自己中心性に気づくと
内なるエゴは身動きができなくなります
行為の主体であるエゴの動きに気づくと
エゴは消滅しそして愛が姿を現します
愛は誰のものでもなく空気のように
空間という空間に充満していますが
エゴの運動が止まないかぎり
愛に触れることはできません
自我に囚われた偏りのある脳の働き(利己的な思考や感情)が
止まなければ愛に触れることはできないのです
A かなり詰め切っておられますね
私 愛は自由であり秩序であり静けさではないでしょうか。
自由......利己的思考・自我からの自由
秩序......自然が永久に無矛盾に間違いなく機能するような秩序
静けさ.....思考という騒音のない状態
A 秩序は何でしょうか?
無秩序な愛に慣れていてこれも感覚的には掴みにくい
私 愛から生まれる行為というのは全体的だから、
他者の行為とぶつかることはありません
行為自体に秩序があるので
混乱を生むことはありません
無秩序な愛情は中心に自分(エゴ)がいます
自分の幸せ、快楽、満足、成功を最優先するので
同じように自分のことを優先する人と必ずぶつかります
A 思考の排除というのは、
頭で考えることは愛ではないということですね?
しかし愛が脳内活動なら全く頭を使うな、
ということでもないだろうなとも
私 仰るとおりです
考えたら愛ではないというのは
脳が自己に制限される場合においてです
自己に制限されている脳から生じる思考は
必然的に利己的なので、それは断片的で
無秩序であり愛ではありません
自分の将来、自分の満足、自分の出世、自分の恋人と
脳は自分中心に思考するのでその運動は自己に限定されます
しかし自己(エゴ)が止むと脳の制限(もつれ)は解除され
脳は全体的に機能するようになります
この全体的に機能する脳から生まれる思考は
限定された脳から生じる利己的な思考とは違います
その思考が自己に限定されることはないので
そこから生まれる行為は誰とも衝突しません
全体的な行為こそが愛です
また全体的だから秩序があります
脳が限定されていたために日本中心/自分中心に
考えていた脳が正常に全体的に機能し始めると
世界全体/人類全体を考えて行動するようになります
これが愛ではないでしょうか?
A 捉えにくいですね
私 先程もお話しましたが限定された思考では
あるポイントまでしか愛について理解できません
限定された思考で辿りつけるポイントまで行くには
論理的な思考でもって愛ではないものを
1つずつ否定していくことが必要になります
嫉妬は愛じゃない
依存は愛じゃない
性欲は愛じゃない
憎しみに変わるものは愛じゃない、というように
自分は愛を知らないという事実をしっかり見てとり
愛という未知なるものを定義したり概念を築き上げたりしないで
愛ではないものを1つ1つ取り除いていくと
最後に残ったものが愛ということになります
心から利己性を焼き尽くすことによって
私たちは愛の本質を捉えることができます
自我の働きが静止すると~
利己性がきれいに取り除かれると~
心に愛が流れ込んできます
エゴという障害物が取り除かれたからです
そして愛があれば外側に愛を求めることもないので
相手を束縛したり嫉妬や依存することもありません
愛は何かあるいは誰かによりかからなくても
山のように独りで立つことができるなので
たとえ愛する人と別れることになったとしても
愛が枯渇するようなことは一切なく
泉のように次から次へと湧き出てくるものです
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