先日ドラマ「ノーサイド・ゲーム」を観ていたら
敵は自分の成長のために必要だ
と言っていました。
このように人は無意識のうちに条件付けられるのだなあ、
私も子供の頃からこのようにして条件付けられて
きたのだなあと改めて思いました。
ある概念が私たちの内部で夢や理想、信念として形作られ、
条件付けから組み立てられた夢や理想や目標を
生涯追い求めるのです。
この主張は本当でしょうか?
ライバルがいるから強くなれる、成長できる敵の存在は必要だ
切磋琢磨という言葉が一般的に良い意味で用いられるように、
この主張は広く支持されていますが、
ライバルがいることで本当に成長するのでしょうか?
ドラマでも主張されていましたが、
この考えの背景には生物は天敵がいるから進化する
という事実があるのですが、天敵は同じ生物ではありません。
昆虫に対する鳥、カエルに対する蛇、ネズミに対するネコ
というように、敵は同じ生物ではありません。
一方、私たちが切磋琢磨する相手は同じ人間です。
玄米は発芽までの間、種を守るため外皮や胚芽に毒を
含んでいるといわれますが、
玄米は米同士で競い合っている訳ではありません。
人間は自らの暴力性を容易に正当化し美化しますが、
仲間と競うとき私たちは本当に成長しますか?
ライバルがいることで、
仕事ができるようになるかもしれません。
ライバル会社がいることで、
会社の売り上げは伸びるかもしれません。
ライバルがいることで、
あなたの年収は上がるかもしれません。
アイツには負けられないという気持ちが、
あなたを肉体的に強くするかもしれません。
しかし精神的に内的に、あなたは本当に強くなりますか?
精神的に内的に、あなたの暴力性が強まるのではありませんか?
暴力性が増すことは成長でしょうか?
誰かと競い争うほどに、暴力性・攻撃性は強まります。
あなたが成長と言おうと、
私たちは暴力的に攻撃的に野蛮になるのです。
ダーウィンの進化論によると人間は動物から進化して
今に至るわけですが競争することで
人間の動物性は活性化されて進化というよりはむしろ
退化するのではないでしょうか?
努力や競争、強い意志が賞賛される社会に慣れている私たちは、
その暴力性・残虐性を見れなくなっています。
暴力性への耐性ができ、暴力に対して鈍感になっています
競争の美学、努力の美学、成功の美学と、
暴力を華やかな言葉で装飾した後、
私たちはそれを追い求めるわけですが、
これらの暴力性に気付かなければ
私たちが暴力性・攻撃性から自由になることはありません。
攻撃的な私たちが作り出すことができるのは、
暴力や攻撃や競争に満ちた社会だけです。
このような社会に、子供たちを送り出すつもりですか?
2000年前に比べると私たちの外見は洗練されていますが、
内的に私たちは依然として暴力的で野蛮で攻撃的なままです。
自分の中に潜む暴力性を、しっかりと見ましょう。
そしてそれを終わらせましょう。
暴力や競争のない社会のために.... 子供達のために....
関連記事
怒り・暴力を観察する
比較・競争・模倣・服従は暴力
比較・競争から自由になり劣等感・攻撃性・嫉妬から自由になる
☆☆
相談を承っております
詳細はこちらをご覧ください
→オンライン相談について
0 件のコメント:
コメントを投稿