批判と指摘の違い
「批判」と「指摘」の違いを明らかにしたいと思い
辞書で調べてみました
批判 ..... 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し
正すべきであるとして論じること
指摘 ..... 大切な点や注意すべきこと、欠点や過失などを
具体的に取り上げて指し示すこと
参照:コトバンク
ブログでは事実を指摘している
ブログで行うのは【指摘】です
実況中継しているように
私たちが普段どのように生活しているか
人や自然や動物とどのように関わっているか
社会で起きていること、心の中で起きていること
~悲しみや怒りや孤独 etc.~について語ります
しかしもしあなたが批判されていると感じるとしたら
謝罪とともに誤解を恐れずこのように言いたい!
あなたは私の言葉にではなく
【事実】に気を悪くされたのではありませんか?
※『相手の言葉に対する反応に気づく』
あるがままの心を見つめることの大切さ
心の反応を見つめることはとても大切です
なぜなら心が動揺しているとき、事実は捉えられないからです
だからブログを読んでいる最中も感情や思考の波に
呑み込まれないように心の動きを絶えずチェックしながら
書かれたことの真偽を確かめましょう
事実は不快感を与えることがある
私たちが日々どのように生きているかを
具体的に描写するよう心がけていますが
それはあなたの生き方そのものではないにしても
的外れというわけでもないでしょう
だからときおり苛立ちを覚えることがあるかもしれません
そのときは心に生じた苛立ちを見つめてください
レスラーの技をつぶさに解説する古館伊知郎さんの
ようにあなたの考えや感情を細かく描写できる
とは思っていませんが彼の解説に怒りを感じる
レスラーがいるでしょうか?
いるとしたらそれは彼自身のプレイに対する
憤りや苛立ちではないですか?
だって彼は見たままを解説しているだけですから!
わたしも同じです、ただ事実を伝えています
ですからあなたが不快になるとしたら
事実に気分を害されている可能性大です
だからご自分の苛立ちや不快感をしっかり見つめましょう
※『あるがままに見るとはどうすること?』
『怒りからの脱却:コントロールしないで見つめる』
これは対話であり指示・提案ではない
このブログは読者が何をしてどのように考え
どう生きるべきかを指示しているわけではありません
また新しい体系やイデオロギーの一式を提案している
のでもありません
あなたがどのように生きているかを語っています
あなたとわたしは対等です
だから同じ目線で語り合うことができます
心にあるものすべてを躊躇なくさらけ出すことのできる
友達同士のように真剣に語り合うことができます
批判は何1つ良いことを生み出さない
自分の生と他の人たちの生に関心をもつ二人の友として
わたしとあなたは世界で起こっていること
そして心で起こっていることを話し合います
互いに尊重し合う仲間が批判するようなことはありません
相手を説得したり特定の観念を押しつけることは
ありませんし論破することもありません
手放せないでいる感情や観念を指摘し合い
自分達を縛るものから自由になるよう助け合います
これがこのブログの役割です
北に行くと何があり南に行くと
何が待ち受けているか読者にハッキリ分かるよう
標識のように機能するといいなと思います
ただ方向を指し示すだけで標識が命令することはありません
※『批判する心・見下す心』
『ブログを通して伝えたいこと』
事実を見るためにはオープンな心が欠かせない
事実を歪めることなく見るにはオープンな精神が必要です
あらゆることに開いている心が不可欠です
なぜならあることにオープンで別のことに閉じているような
限定された精神は事実を見ることはできないからです
特定の言葉を個人的に受け取ってしまうような
限定された心では人と関わり合うこともできないのです
事実を見なければ真の関係は築けない
例を挙げます
あなたが私に「鼻が低いね」と言います
※私の鼻は実際低いのでこれは事実ですwww
あなたは見たままを言っただけですが
私がこれを個人的に受け取ってしまうと
あなたと深く関わることはできません
嫌いな人に心を開くことはないからです
※『セルフイメージを落とすと傷つかない』
では私が鼻が低いという事実をただ見つめると
どうなるでしょう?
関係を邪魔するものは何もありません
わたしは事実を掴んでいるので
あなたへの嫌悪感が心に生じることはないからです
このように事実を見つめることができると
互いのことを誤解することなく
深く関わり合うことができます
思考による解釈は事実ではない
ただ誤解してほしくないのは鼻が低いと言われたときに
「悪気はないのだから悪く思わないようにしよう」
と自分に言い聞かせることは賢明ではありません
というのはこれは思考の解釈で事実ではないからです
それに解釈の仕方によって気を紛らせることはできても
私があなたに心を開くというミラクルは起こりません
ですから思いたいように思おうとしても
事実を見ることができなければ友情は
育むことができないと理解しましょう
※『思考を挟まないで事実を見る』
『人の美点だけを見ようとする思考』
事実は誰も傷つけない、傷つけるのは思考
事実が分離・衝突をもたらすことはありません
あなたと私の間に壁を作るのは事実ではなく思考です
鼻が低いという『事実』をストレートに言った
あなたのことを失礼な人だと決めつけた
思考に私は傷ついて心を閉ざすのです
事実に対する動揺とそれを口にしたあなたに対する
憤りが心の扉をピシャリと閉じたのです
事実のせいではありません
原因はいつも事実を解釈する思考にあるのです
理解したいという情熱を持とう
事実にとどまるには対象が何であれ
理解したいという情熱が必要です
相手を理解したいという想いがあれば
自分勝手に判断したり決めつけることはないからです
理解したいという想いがあると注意深く観察します
誰かが放った無責任な言葉を信じるのではなく
自分の目や耳でちゃんと相手を見て理解しようとします
つまり想い(情熱)が私たちを鋭利な観察へと誘うのです
そして鋭利な観察が物事の本質を明らかにします
情熱が物事の真偽を照らし出します
※『物事の本質を見抜く』
ブログを読んで条件付けから自由になろう
私とあなたが事実を歪みなく観察することができれば
私たちは理解し合うことができます
深く理解すると相手の条件付け~相手の思考パターンや
心のパターン~にも当然気づきます
私たちは深い愛情から相手がまだ気づいていない
条件付けを指摘し合って一緒にそれから自由になります
互いの条件付けを指摘し合うことによって
自覚することができるので思い込みから自由になれです
このようにわたしとあなたもブログを通して
条件付けから自由になっていきましょう
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