心理的な記憶ほど厄介なものはありません。
過去の苦い記録にしても楽しい記憶にしても
記憶を保持している以上、人と関わることなどできません。
あなたの記憶が相手への接し方を決めてしまうので、
その関係は必ず限定されます。
あなたと私がよく喧嘩する仲だとします。
苦い経験から私はあなたとぶつかりたくないと、
思っているとします。
つまりあなたとぶつかりたくないという願望をもっています。
この願望は裏返すとぶつかることへの恐怖が
あるということです。
つまり過去の記憶が、私を願望や恐れへと駆り立てるのです。
私はその願望、その恐怖から、あなたの機嫌を損ねまいと
自分の言動に細心の注意を払います。
あなたとぶつかりたくないからです。
すると当然、私とあなたとの会話は表面的なものになります。
自分や相手が傷つかない話題を選ぶようになります。
天気、政治、ニュース、スポーツ、芸能人の噂話や
最近観たドラマやお笑いの話になります。
私が願望・恐怖をもっている為に会話が限定されるのです
私の頭から離れてくれない記憶が、会話の内容を限定します。
このように心理的な記憶は、私たちが真に関わるのを妨げます。
私とあなたは自分の感情や概念、観念や幻滅をさらけだして
話せるような関係ではありません。
自分の抱える悩みや問題について、
腹を割って話すことができる関係ではありません。
私たちは深刻な悩みや問題を内に抱えつつ、
それとは無関係の話しかできない上辺だけの関係なのです。
しかしこのような関係が、はたして関係と呼べるでしょうか?
私たちはこのような薄っぺらい関係しか持っていないにも関わらず
その惨めさに気づけないほど鈍感なのでしょうか?
心を開いて話せる友達をもつことの素晴らしさを、
忘れたのでしょうか?
それとも始めから深く関わることの素晴らしさを
知らないのでしょうか?
だから表面的な関係でも平気なのでしょうか?
心をさらけ出して話せる友達はいますか?
自分の感情や観念を開けっぴろげにできる友達はいますか?
損得なしに付き合える友達はいますか?
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本当に人と関わりたいのだとしたら
心理的記憶を一掃しなければなりません。
過去の相手の言動を引きずっていては目の前の相手と
接することはできません。
辛い記憶があるならそれを繰り返すことへの恐れが、
楽しい記憶ならまた味わいたいという願望が、
あなたの行動を縛るからです。
願望や恐れをもっているかぎり、
人と本当に関わることはできません。
願望や恐れがあるかぎり、
自分自身のことさえも正しく観察することはできません。
願望・恐れが、あなたの行動を観察を限定するからです。
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心理的な記憶を保持することの危険をしっかりと見ましょう。
その危険を自覚すると、
心理的な記憶がよぎる瞬間を見逃しません。
その瞬間に気づけば、頭の中の記憶の物語の再生は止まります。
すると記憶や願望、恐怖に支配されない
自由な行動をとれるようになります。
記憶から自由なときに初めて相手をあるがままに見つめ
理解し関わることができるのです。
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もう一度説明させて下さい。
記憶がよぎるときはいつも、思考はアクティブです。
意識は思考に飛び、
あなたは現在〈いま〉にいることはできません。
『上の空』という言葉があるように、思考に心を奪われます。
しかし心理的記憶の危険を理解したあなたは、
過去の記憶がよぎる瞬間に敏感になります。
心理的記憶を保持することの危険に気づいたからです。
記憶が蘇るまさにその時あなたは
「思考に飛んでいる」と自覚します。
その思考を注視すると思考は止まるのです。
思考が止まるということは、
頭の中の記憶の物語も止むということです。
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心理的時間の虚偽を見抜く
このように現在〈いま〉にいない瞬間を注視しましょう。
思考が活発に動き出したらその思考を注視するのです。
すると思考は静まり、あなたは現在〈いま〉に戻ってきます。
最後に....
人と人がぶつかるのは意見・結論・過去の記憶・知識・
相手のイメージを私たちが手放さないからです。
それがぶつかる原因であってそれを手放すと
ぶつかるものは何もありません。
事実をみつめて会話するとき、
二人を分つものは何もありません。
分離がないところ衝突はありません。
しかし一方が事実を指摘し片方が事実を見つめられずに
相手に批判されたと感じて傷つき自らの殻に閉じこもるなら、
二人は分かち合えません。
分かち合うには両者共にオープンでなければなりません。
また相手への愛情や慈しみも分かり合うためには必要です。
このように真の関係を築くには
互いが精神的に成熟していなければなりません
成熟な精神とは事実をありのままに歪みなく
見つめることのできる精神です。
互いが事実をありのままに見るとき、
私たちは本当に関わることができます。
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