過去の悲しみを連想しないで現在の悲しみと出会う

2019/08/16

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あなたが過去に辛い経験をしたとします。

あなたはそれが、本や映画で見聞きした悲しみであると知ります。

こうして、胸の疼きを悲しみと名付けます。

この体験は、あなたの中に記憶として残ります。
そして今、そのとき感じた感覚に近い痛みを感じています。

痛みを感じているあなたに、過去の辛い記憶が蘇ります。

「この感覚、知ってる、前と一緒だ」とあなたは思います。

これが痛みという知覚に、思考が入り込む瞬間です。

こうしてあなたは、痛みを悲しみとして認識します。




しかしよく考えてください。

現在の胸の痛みと、過去の痛みが同じ筈はありません。
どんなに似ていようと、いま感じている痛みは生きています。

流れている水と、淀んだ水は同じではありません。

流れている水は常に新鮮ですが、淀んだ水は腐ります。

私たちは淀んだ水に触れて、
新鮮な水に触れた気になっているのです。

私たちは現在の胸の痛みに出会うことが、殆どありません。

既に過ぎ去った痛みにしか、出会わないのです。


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痛みを感じると、辛い過去の記憶が蘇ります。

このように思考は、痛みを感じるや否や
過去の痛みを連想します。

思考が動き始めるので私たちは思考の中に迷い込んでしまい
今の痛みに直面できなくなります。

私たちは現在の胸の疼きにではなく、
過去の痛みを重ねた現在の痛みに出会うのです。

しかしそれは、現在の胸の疼きとは別物です。

過去が介入しては、現在に出会うことはできません。




痛みを悲しみと認識するとは、
過去の痛みを連想し現在の痛みと関連づけることです。

過去の連想は、思考が動いた証拠です。

思考が働くとき今起こっている胸の疼きに
触れることはできません。

思考が働くとき、私たちは過去の悲しみを通して
現在の痛みに触れるのです。

つまり思考が働くときに、私たちが現在に出会えないのです。




それでは思考がどのように働くか、一緒に見ていきましょう。


恋人との別れから胸が引き裂かれそうに痛む
→ いま起きていること



「あ、この胸のズキズキ知ってる、前に感じたことがある」
 → 過去を連想する過去を連想する=思考が動く



現在の胸の痛みを悲しみと認識する
→過去の記憶から認識する=思考が動く




過去の連想や記憶を通さず、
胸の痛みに触れることはできないのでしょうか?

今起こっている胸の痛みにじかに接することは
不可能でしょうか?




あるがままのものと刻々に直面して生きることは可能です。

それには注視するだけでいいのです。

自分の感情に気づいていることです。

注視するとき、思考は働くことができません。


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どのように注視するのかとは、どうか訊ねないで下さい。

方法は、実践や時間を示唆します。

方法・実践が存在するところには、
必ず思考が存在します。

何かを成し遂げるという目的や動機が、
まさに思考の動きです。


関連記事:気づきに訓練・方法はない




荘厳な山を眺めるように、ご自身の内面を見ます。

「山を眺めるにはどのように眺めたらいいの」
とは訊かないでしょう?

誰からも教わらずに、眺めることができるでしょう?

眺めるのに、努力や鍛錬あるいは
特別な実践法を必要とはしないでしょう?


関連記事:努力・目標・目的・理想の虚偽




同じように次から次へと現れては消えていく
感情を眺めましょう。

激しい波や緩やな波など、心に起こる全ての波を見つめます。

十分に注視するなら、波を「悲しみだ、苦しみだ、怒りだ」
などと名付ける思考の動きはありません。

十分に注視するなら、
波を批判したり正当化する思考の動きはありません。

十分に注視するなら、自然に波は消滅するのです。


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真理探究に15年を費やした後あらゆる修行・規律・イデオロギーは不毛であると気づく。以来感覚だけを頼りに思考と感情を刻々と観察しながら自己について学んでいる

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