あなたが過去に辛い経験をしたとします。
あなたはそれが、本や映画で見聞きした悲しみであると知ります。
こうして、胸の疼きを悲しみと名付けます。
この体験は、あなたの中に記憶として残ります。
そして今、そのとき感じた感覚に近い痛みを感じています。
痛みを感じているあなたに、過去の辛い記憶が蘇ります。
「この感覚、知ってる、前と一緒だ」とあなたは思います。
これが痛みという知覚に、思考が入り込む瞬間です。
こうしてあなたは、痛みを悲しみとして認識します。
しかしよく考えてください。
現在の胸の痛みと、過去の痛みが同じ筈はありません。
どんなに似ていようと、いま感じている痛みは生きています。
流れている水と、淀んだ水は同じではありません。
流れている水は常に新鮮ですが、淀んだ水は腐ります。
私たちは淀んだ水に触れて、
新鮮な水に触れた気になっているのです。
私たちは現在の胸の痛みに出会うことが、殆どありません。
既に過ぎ去った痛みにしか、出会わないのです。
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痛みを感じると、辛い過去の記憶が蘇ります。
このように思考は、痛みを感じるや否や
過去の痛みを連想します。
思考が動き始めるので私たちは思考の中に迷い込んでしまい
今の痛みに直面できなくなります。
私たちは現在の胸の疼きにではなく、
過去の痛みを重ねた現在の痛みに出会うのです。
しかしそれは、現在の胸の疼きとは別物です。
過去が介入しては、現在に出会うことはできません。
痛みを悲しみと認識するとは、
過去の痛みを連想し現在の痛みと関連づけることです。
過去の連想は、思考が動いた証拠です。
思考が働くとき今起こっている胸の疼きに
触れることはできません。
思考が働くとき、私たちは過去の悲しみを通して
現在の痛みに触れるのです。
つまり思考が働くときに、私たちが現在に出会えないのです。
それでは思考がどのように働くか、一緒に見ていきましょう。
恋人との別れから胸が引き裂かれそうに痛む
→ いま起きていること
↓
「あ、この胸のズキズキ知ってる、前に感じたことがある」
→ 過去を連想する過去を連想する=思考が動く
↓
現在の胸の痛みを悲しみと認識する
→過去の記憶から認識する=思考が動く
過去の連想や記憶を通さず、
胸の痛みに触れることはできないのでしょうか?
今起こっている胸の痛みにじかに接することは
不可能でしょうか?
あるがままのものと刻々に直面して生きることは可能です。
それには注視するだけでいいのです。
自分の感情に気づいていることです。
注視するとき、思考は働くことができません。
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どのように注視するのかとは、どうか訊ねないで下さい。
方法は、実践や時間を示唆します。
方法・実践が存在するところには、
必ず思考が存在します。
何かを成し遂げるという目的や動機が、
まさに思考の動きです。
関連記事:気づきに訓練・方法はない
荘厳な山を眺めるように、ご自身の内面を見ます。
「山を眺めるにはどのように眺めたらいいの」
とは訊かないでしょう?
誰からも教わらずに、眺めることができるでしょう?
眺めるのに、努力や鍛錬あるいは
特別な実践法を必要とはしないでしょう?
関連記事:努力・目標・目的・理想の虚偽
同じように次から次へと現れては消えていく
感情を眺めましょう。
激しい波や緩やな波など、心に起こる全ての波を見つめます。
十分に注視するなら、波を「悲しみだ、苦しみだ、怒りだ」
などと名付ける思考の動きはありません。
十分に注視するなら、
波を批判したり正当化する思考の動きはありません。
十分に注視するなら、自然に波は消滅するのです。
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