『ラベルを貼ったものはもう探究できない』
という先日の記事を読まれた方から
医師や医学生が読んだら
気を悪くするかも..
という意見をいただきました
もし彼らが医師や医学生といった
限定された立場から記事を読むなら
気分を害するかもしれません
しかしもし....
彼らが医師や医学生である前に
一人の人間として読むなら
嫌な気分になることはありません
※『全体的であるとは』を
併せてお読み下さい
事実が人を分かつことはありません
事実は全ての人にとって事実であり
もし事実を直視することで
あなたが不快になるとしたら
事実があなたを不快にしたのです
ただ誤解して欲しくないのは
私は医師という職業を軽視して
いるわけではありません
医師としてやるべきことを
やっている
のですから...
そうはいっても患者が
医師の診断に全幅の信頼を
置く必要はありません
なぜなら医学で分かっていることは
まだほんの一部だからです
私たちの身体はいまだに
謎だらけです!
だから医師の判断は絶対ではないし
それは最後の審判ではありません
また信じ切ってしまうと
人は自分で見出す能力
失ってしまいます
※『専門家があなたを不具にする』
を併せてお読み下さい
最近朝顔をよく見かけますが
「朝顔」と名付けた瞬間に
私は目の前の朝顔をあるがままに
見ることはもうできません
「朝顔」と名付けるのは思考であり
思考が過去に何百回とみた
朝顔を記憶しているから
私は『朝顔』として認識します
わかりますか?
認識する際、思考は活発に動いています
では思考が働いているとは
どういうことでしょう?
それは頭の中で過去の記憶が
作動しているということであり
そのとき意識は現在(いま)に
あることはできません
つまり私の意識は過去に飛んでいて
目の前の花を純粋に見れません
※『純粋な観察』を併せて
お読み下さい
簡単に言うと...
過去(記憶)が朝顔を見ており
過去に染まっていない目で
目の前の朝顔を見てはいません
思考が活発なときには
観察することはできないのです
過去にみた朝顔という
フィルターをかけて
目の前の花を見ているので
目の前の花の表情や香り
繊細さや儚さに十分には
気づけません
※『思考を挟まない』を
併せてお読み下さい
同様に「うつ病だ」と言った時点で
あなたは自らの感情の移り変わりに
気づけなくなりますし、思考が感情と
密接に関わっていることにも
気づけません
というのは自分は『うつ病』だと
結論付けてしまいましたので
思考や感情の動きに敏感では
いられないからです
つまり名付けた時点
結論に至った時点で
私たちは新たなものを
発見できないのです
結論に至ってしまうと
あなたがする発見は必ず
結論(過去)に染まっているので
新たな発見ではありません
対象を全体的に観察することによって
人は新たなものを発見しますが
過去が軸となる部分的な観察では
そうは行かないのです
※『部分的観察vs.全体的観察』
を併せてお読み下さい
映画を初めて観るときと
二回目観るときとでは
注意力に違いがあるように
既に知っているものとして
向き合うときには
あるがままを知覚することは
できません
ですから病名であろうと
花の名前であろうと
人や動物であろうと
名付けて終わりではなく
あるがままを徹底的に
観察することが大事なのです
相手をアメリカ人とみなすと
あなたは彼を一人の人間として
もう観察はできません
アメリカ人というフィルターを通して
彼を見ることになるからです
※『色眼鏡を外す』を併せて
お読み下さい
このような部分的な観察によって
あなたは彼をジャッジします
「アメリカ人にしては謙虚だ」
「アメリカ人にしては大人しい」
「アメリカ人なのにスタイルが悪い」
「アメリカ人なのに繊細だ」etc...
このように言うとき
あなたは彼について
何も新しいことを
発見してはいません
あなたの発見はアメリカ人について
あなたが持つイメージと彼を
比較しての意見でありそこに
新しいことは何一つありません
※『判断しない』を併せて
お読み下さい
あなたが幻想の中、
思考の中に生きることを
望んでいるのなら別ですが
そうでなければ何らかの
フィルターをかけた時点で
純粋な観察はできないことを
理解してあらゆるフィルターを
取り払いましょう
フィルターを取り除かなければ
あなたが見るものと事実は
別物だということを
自覚しましょう
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