先の投稿では自己観察がどういうものか、
自己観察を通して発見するものとはどういったことなのかについて、
話し合ってきました。
関連記事:自己観察を通して脳の条件付けに気づく
今回は「脳の条件付けに気づかなくても、
別に困らないのではないか?」という疑問について、
調べていきたいと思います。
これまで生きてこられたのだから、
脳の条件付けに気づく必要性を感じないと、
感じておられる方も多いかもしれません。
もしあなたがそのように感じるのであれば、
無理に変える必要性はありません。
ただここでは、なぜ筆者が脳の条件付けに気づく必要性・緊急性
を感じるのかについて述べていきたいと思います。
鵜呑みにするのでもシャットアウトするのでもなく、
まっさらな状態でその真意を掴み、
真偽を見出していただけたらと思います。
脳が条件付けられていることに、
気づかずに生きるとはどういうことでしょうか?
- 歴史は繰り返されるとは良くいったもので、これまでそうであったように条件付けられた脳は人間を分離し、その結果生じる衝突や争いはこれからも続いていきます。
- 戦争によって大事な人を失った人達の悲しみや苦しみは、人類の意識に深く刻まれ続けます。
- 現在の社会がそうであるように、個性や競争、貪欲さは奨励され社会はますます堕落の一途をたどるでしょう。
- 過去の継続である伝統は、これから先も問いただされることなく受け継がれていきます。
- 思考が作り出した神を、人は崇め続けるでしょう。
- 常にあるがままの自分とは違う自分になるよう条件付けられているので、内面に葛藤や不満を抱えて生きることになります。
- 条件付けに気づかなければ、相変わらず思考が人生の大部分を占めるため、私たちの生は常に部分的で混乱し矛盾したものとなります。
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思考が理解を妨げ空間が理解をもたらす
このようなことが脳の条件付けに気づかずに生きることによって、
以前として起こります。
私たちはこのような世界に生きることに、疑問を抱きませんか?
自分の生活さえ安定していれば社会で起こることは
どうでもいいのでしょうか?
自分の安定・願望を満たすことしか、興味はないのでしょうか?
このような私たちの利己性が残酷な社会を築き上げてきた
のではありませんか?
私たち自身が残酷なので、
周囲に残酷さを生み出してしまったのではありませんか?
無関心は、非常に残酷ではありませんか?
無関心は、自己中心性の産物ではありませんか?
関連記事:内面の残酷さを観察する
自己・自我が止むとき美は現れる
条件付けの一つである、自分と他者との分離は錯覚である
ということの真理を掴まないかぎり、
私たちは過去を修正しながらしかし、
以前として過去に基づいた人生を送るのです。
そして分離という錯覚によってこれまでそうであったように
互いに対立し競争し続けるのです。
というのも、分離は不可避的に争いを生み出すからです。
関連記事:分離という迷妄
分離のあるところには必ず対立・葛藤がある
自分と他者との分離が錯覚だということに気づくには、
あるがままの自分を観察しなければなりません。
自分の反応に、注視しなければなりません。
そうすることで、脳の条件付けは暴かれ呪文は解けます。
条件付けから自由な脳は、決して自分と他者を分離しません。
自らの内部にも、対立物を生み出しません。
自由な脳は、分離の虚偽を見抜くからです。
従って、内面・外面の争いはすべて終焉します。
脳の条件付けを取り去ったときにのみ、
私たちは真に生きることができるのではないかと思います。
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