私たちの条件付けの一つは、初対面の相手に職業を訊くことです。
相手を知ろうとして職業を訊くのですが、
対象が目の前にいるにも関わらず、
私たちは色んな質問をして相手の情報をかき集めます。
しかしこのような情報こそが相手を理解するのを妨げていることに、
私たちは気付いていません。
相手が無職だった場合、どこかの社長だった場合、
有名人だった場合、店員だった場合で態度は変わりませんか?
これまでの経験から出会って早々相手のイメージを築きますが、
理解するのに本当にイメージは役立つのでしょうか?
道端に咲いている花に、あなたは関心をもっているとします。
その花を知るのに、花の名前を知ることは大事ですか?
その花をよく観察することの方が、大事ではありませんか?
花の繊細な形や色を観察することで、学ぶのではありませんか?
花の知識は勿論、本やネットで調べることができます。
何科でいつ咲くのかなど、様々なことを知ることはできます。
しかしネットで調べた花は、目の前に実際にある花とは違います。
あなたの関心を引いた目の前の花を知るには、
目の前の花を観察するしかないのです。
美しさ、香り、柔らかさ、早朝・日中・夕方に見せる
表情の違いなど、多くのことを観察することで学べます。
職業も経歴も花の名前と同じで、
相手の一部であって全体ではありません。
海の水を手にすくってその性質を詳細に調べても、
海を理解することはできません。
部分から全体を知ることはできないのです。
理解するには、対象を全体として見なければなりません。
対象を全体として見るには、
こちら側が限定されていてはならないのです。
相手をカテゴライズした瞬間、観察は限定されます。
つまり精神が限定されていては、相手を理解できません。
精神が何にも限定されないとき、歪みなく見ることができます。
肩書きというフィルターを通さず、
目の前の相手と接することができるのです。
そのときのみ、相手と本当に関われるのです。
どんなに長く付き合っている友達でも、
初めて出会うかのように出会います。
すると、会うたびに新たな発見があります。
過去の言動といった既に終わったことを引きずっていたら、
刻々と変化する相手と関わることはできません。
映画を鑑賞する時のような、どのように展開するのか
わからないドキドキワクワクの感覚こそ、
生きるということ、人や自然や動物と関わるということ
ではないでしょうか!
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