質問
「人生で起こる辛いことや苦しいことは試練で、
神は乗り越えられない試練は与えない」などと
言われますが、ではなぜ自殺してしまう人がいるのでしょう?
耐えられないから自殺するんじゃないんですか?
※『自殺を考えている人に知ってほしいこと』
様々な観念を信じている私たち
「神は乗り越えられない試練を与えない」という考えは
私たち人間が作り出した観念に過ぎません
人は希望や勇気を与えてくれそうな観念
モチベーションを上げてくれ
元気をくれる観念をこしらえては
それを信じて生きています
困難な状況に直面するとあなたはすかさず
「神は耐えられない試練は与えないものだ、
だから自分には乗り越える力があるのだ」と
自分に言い聞かせて窮地を乗り切ろうとします
ですが実際は「あなたが困難な状況にいる」
ということだけが事実でそれ以外はあなたが
そのように思いたい・信じたい観念です
観念は事実ではありません
つまり観念を持っていても事実は変わらないので
乗り越えるためには観念ではなく事実と
向き合うことが重要なのです
しかし殆どの人は事実にとどまることより
夢や希望を与えてくれそうな観念を
胸に抱いて生きることを好みます
幻であってもそれが勇気をくれるものなら
何でも信じよう!というわけです
しかし事実ではないものが人生を豊かにするのでしょうか?
よく考えてください
観念を信じることで少しでも生きやすくなるなら
それでいいじゃないかと思われるかもしれませんが
観念を持つことの危険に気づいたらそうも言ってられません
ですからここから観念の正体を調べましょう
神という概念
神は人間が作り出した概念ではありませんか?
私たち人間の思考がこしらえたイメージです
どうにもならない苦しみを取り除いてくれる存在
永遠に味方でいてくれ愛してくれる存在を求める
人間の願望が神という概念を作り出しました
愛そのものである存在がいてほしいという
想いが神を作ったのです
つまり思考が神を作り出しました
思考は耐え難い苦しみから神という存在を作り出し
そして神に出会えたら苦しみから解放されるという
希望や目標を自らに与えたのです
辛いだけの人生を明るくしてくれる神の存在が
人間にとって必要だったのです
人生が上手くいかなくなると私たちは
自らの悲しみや絶望を祈りという行為を通して
神様にぶつけます
『苦しみから逃れたい』『崇高な何かがあるに違いない』
という人間の願望が全能の神を作り出したのです
※『神は存在する?しない?』
『人はなぜ神を求めるのか?』
観念をこしらえるのは何故?
私たちは『意味の後付け』が得意です
最近の出来事でいうと即位礼正殿の儀
「即位礼正殿の儀に合わせたかのような虹」
「天皇は神の子孫だから天が応援している」
「天照大神がついているからだ」などという
自分たちの信仰を満足させるような意味を
多くの人が後付けしているのには驚きました
ピンチはチャンスという言葉もそうですが
私たちはあらゆることの中に適当な観念や
意味を見い出して満足しますがそもそも
なぜ観念を作り上げるのでしょうか?
不安な人生をより安全に生きるために
何らかの指針・法則が必要なのでしょうか?
生きる意味を見出した人、悟りを開いた人
どのように生きたらいいのかを知っている人から
アドバイスを求めるのは確かな人生・間違いのない人生を
送りたいという想いが私たちにあるからです
つまり観念は私たちのそういった願望から生まれたのです
※『生きるための羅針盤は必要?』
『「ピンチはチャンスは本当ではない」は観念』
観念は安心願望から生まれる
人生を断定する人が多くいます
「苦しむのが私たち人間なのだ」
「苦しみを通して優しくなれる」
「悲しみを知っている人は他人に優しくできる」
「葛藤するのが人間だ それが生きるということだ」
このようにあらゆることに関して持論をもっていますが
持論をもつことで生きることが楽になると
私たちは思っているのではないですか?
結論をもつことで降りかかる問題を回避したり
適切に対処できるとあなたは思っていませんか?
しかし実際は逆なのです
結論に安住することで人間は安全・安定を逃します
なぜなら結論に縛られて事実が見れない者は危険だからです
ここからは結論に至ると危険な理由を見ていきます
※『安定を求めるほどに不安定になる』
結論に至った精神は鈍い
私たちは観念や結論で周りを固めて安心しようとしますが
これによって私たちは安全から遠ざかっています
というのは結論に至った精神は鋭敏ではないからです
観念・結論に安住した精神は鈍いので
人生の美しさにも危険にも敏感に反応することはできません
危険に反応できないなんて安全じゃないでしょう?
結論に至った人に探究心・情熱はない
例をあげます
今朝読み終えた推理小説を初めから読むとき
あなたは最初と同じ情熱で読み進めることができますか?
答えは「ノー」です
結論に至った精神、観念を持った精神とは
まさにこのような状態です
『人生について十分わかっている』と思い込んでいる精神は
人生という物語を情熱をもって読み進めることはできません
「苦しみは誰もが味わうもの」という観念を
もっていたらあなたは自分の苦しみを注意深く
見つめてそれから自由になれるかどうかを
調べようとはしないですよね?
だってあなたの中ではもう結論が出ているからです
苦しみからは決して逃れられないという結論が…
持論や結論をいっぱい抱えた精神は
重い荷物を背負った旅人のように動ける範囲は限られます
つまり…
あらゆる可能性をもつあなたは観念を持つことによって
人生が制限をかけられてしまうのです
※『結論は探究心を殺す 』
観念・概念を持つことの危険を見て捨てる
観念をもっていては事実を観察することはできません
「苦しむ・葛藤するのが人間だ」
「苦しみを通して人は強くなる」
「悲しみを知る人間は他者に優しくなれる」
あなたがこのように考えていると
苦しみのない生き方を模索することも
葛藤から自由な生き方を探究することもできません
観念をもつことであなたは葛藤や苦しみ、悲しみから
自由になる可能性を自分の人生から閉め出しているのです
観念は探究を阻んでしまいます
あなたがあるがままの事実を観察することを
観念が邪魔するのです
ですから益にもならない観念や概念なんか
ぜんぶ捨ててしまいましょう
何よりも…
事実をありのままに見ていれば
観念や概念なんか必要ないのです
※『苦しみは本当に人を強くするのか?』
事実の中にこそ安全はある
幻で自分のモチベーションを上げてみても
事実を見なければ何も変わりません
辛い状況にいるとき『みんな辛い思いをするのだから
この辛さは仕方がない、耐えるしかない』というのが
観念を持つ人のすることです
一方、危険を理解して観念を一切もたない人は事実と向き合います
辛い状況にいるなら自分の置かれた状況をよく観察します
辛いという気持ちにもしっかり向き合います
このように事実と向き合うと今何をすべきかが
ハッキリと見えてきます
徹底的な観察が次の行動を指示します
だから現在に適切に応答できるのです
これが観念に逃げる人との違いです
あるがままの事実をしっかり見つめる者は
危険が近づけばすぐに察知して離れます
わかりますか?
上辺だけをみると観念を信じる方が気分も上がるし
希望や夢も持てて良いことばかりのようですが
実際は事実が安全を保障してくれるのです
観念という思考の産物に夢中になっているときには
私たちの意識が思考に向いていて事実に向き合えないので
危険が近づいてもそれに気づけないから危険です
観念を持つことは危険なのです
事実を直視することのできない怯えた精神、
新しいものに出会うことを恐れる精神が、
観念や概念といった事実ではないものに逃げて
自らの身を守ろうとするのです
しかしいくら守ろうとしても観念に逃避する者は
現在に応答できないので安全どころか危険なのです
矛盾を見てください
確かな人生・間違いのない人生を送りたくて
様々な観念を採用したのにそれに基づいて
生きることで安全を手に入れるどころか
危険な人生を歩むことになっています
事実を見つめず観念に従って生きることは
ほんとうに危険な生き方なのです
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