A 人を平等に見るということは、全ての人を同じように
  価値ある存在として見るということですよね。

  そしてそれはつまり、人間の本質を1つの根元に繋がる、
  魂的存在だというような見方をしないと、無理ではないですか。

  他の表現で言うなら、すべての人の外に顕れて見える部分ではなく、
  その人の奥に潜む仏性がその人の本質だというような見方



私 あぁ、そうではないんです。
  偏見という眼鏡を外せばよいのです。
  人によって態度を変えなければよいのです。

  あなたが偏見という眼鏡をかけているという事実、
  人によって態度を変えるという事実を見ようとしないで、
  どうして魂やら仏性などを持ち込むのですか?
  
  事実を見ず、耳触りのいい言葉で事実を包み隠しても、
  事実は変わりません。



A でも見方を変えることは大事ですよね?

私 見方を変えることが大事なのではなく、
  そのように見てしまうあなた自身を見つめることが大事です。

  ありのままのあなたを観察すること、つまり、
  偏見という眼鏡をかけて相手を見ているあなた、
  人によって態度を変えるあなたを理解することが大切です。
  


A 相手の「何」を見れば(思えば)よいのですか?

私 自分の目が曇っていることがわかれば、
  あなたが主観性、利己性という眼鏡を、
  頼りにすることはありません。

  主観的観察〜好き嫌い・偏見という眼鏡〜が、
  ありのままに見ることを妨げていることを理解したら、
  あなたはそれを全部捨てて相手を見るようになりませんか?

  主観性・利己性という眼鏡を外して、
  あなたの全エネルギーを相手に注ぎませんか?

  相手が成功者だろうとホームレスだろうと、
  キレイな女性だろうとそうでなかろうと、
  いかなる判断もなしに、目の前の相手の表情、
  言葉、声のトーン、話し方に全注意を払いませんか? 

  このようにして相手と接するとき、
  相手のありのままの姿は明らかになります。



A どのように明らかになりますか?

私 その人が利己的で傲慢な人なら、
  あなたはそれをはっきりと見てとりますし、
  優しい人であれば優しさをありのままに、
  見ることができます。

  この観察は主観によって歪められてはいないので、
  精確な全体的観察です。

  このような全体的な観察は、
  あなたの好みや相手のステータスで判断する、
  主観的な観察とは違うので、
  相手の外側の装飾物(地位や学歴、名声)に、
  染められない純粋な観察です。

  結果、あなたは相手を正確に見つめることができ、
  適切に対応・理解することができます。

  このときのみ主観から離れた事実が、明らかにされます。



A しかし何によって自分の目が曇ったのか、
  その曇りの原因究明が重要ではないかと思いますが、
  これについてはどのように考えられますか?

私 原因が自我だというのは、
  自分自身を見つめれば明白ではないですか?

  クリスマスツリーを装飾するように、
  私たちは自我を知識や経験、地位・名声で飾り立てます。

  自我が必要だと考える知識や経験を蓄積し、
  それを記憶として保持しそれを基に、
  私たちは思考します。

  自我の好き嫌い・快不快・得意不得意に応じて、
  私たちは他者を判断したり、仕事や趣味を持ちますが、
  自我から自由にならないかぎり、
  私たちの行為はどれも限定的で利己的なのです。
  
  このように私たちはいつも自分中心に考え、
  物事を都合良く見て判断しているから、
  私たちの思考や観察、行為はどこまでいっても、
  限定され、断片的で利己的なのです。

  

  自我が止まないかぎり、目の曇りは取り除けません。

  こう言うと永遠に自我から自由になれないと、
  思うかもしれますが、そうではありません。

  出口はちゃんとあります。

  私たちが目の前の相手を注意深く観察するとき、
  自我は止むからです。

  徹底的な観察が、自我を焼き尽くすのです。

  

  壮大な山があなたの悩みを吹き飛ばしてくれるのは、
  山があなたの自我を吸い取るからです。

  同じように、私たちが相手を注意深く観察するとき、
  私たちの自我の働きは止み、全体的な観察が、
  可能になります。

  どのようなことでも注視すると、自我は静止します。

  主観や偏見、快不快・好き嫌いは、
  自我なしでは一時も立ってはいられないので、
  自我が静止すると自動的に止みます。
 



  私は自我からの自由を求めて、
  過去に色々なことを行ってきましたが、
  まさに灯台下暗しでした。
 
  自我から自由になるのにインドに行く必要も、
  自分の全てを指導者に捧げる必要も、
  厳しい修行を行う必要も、長いサンスクリッド語の、
  マントラを唱える必要もなかったのです。

  私のしてきた行為は、
  自我を太らせていただけだったのです。
  
  というのは自我をなくしたいという願望が、
  まさに自我の働きであり、
  そのために行う奉仕も修行も、
  自我の運動に過ぎないからです。

  話が逸れましたが、私は注視が自我を焼き尽くす、
  唯一のものだと思います。

  注視は指導者も方法もお金も必要ありません。
  必要なのはあなたの身体だけ!

  長年瞑想を実践してきて思うのですが、 
  過去に私が実践してきたものは、
  瞑想とは似て非なるものでした。

  瞑想とは自我を徹底的に注視することです。

  徹底的に自らの行為を注視します。
  他者に対する自分の反応を注視します。
  思考・感情を注視します。
 
  このときあなたはようやく主観から離れることができます。

  つまり、あなたは自我から自由になり、
  物事の真偽を掴むことができるのです。



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