愛と憎しみは、まったく違うもののようにみえて、
実は同じものであるという可能性はありますか?
その相手に捕らわれている点では一緒だし。
愛と憎しみは同じもの?
もし愛と憎しみが同じものであるなら、
愛は憎しみの性質をもっていることになります。
果たしてそうでしょうか?
ヒマワリの種からバラは咲かないように、
愛の種からは愛が、憎しみの種からは憎しみが、
開花するのではないでしょうか?
黒と白が混じり合うことのないように、
愛と憎しみが混じり合うことはないではありませんか?
愛は特定の人に限定されるか?
愛は、特定の人に限定され得るものでしょうか?
愛が特定の人に、囚われることがあり得るでしょうか?
愛は排他的ですか? それとも愛は太陽のように、
全方向に開いていて包括的なものですか?
私がある人を愛さなくなったからといって、
愛は消えることなど決してなく、
私を通して流れるものが愛ではありませんか?
愛する人がこの世からいなくなると、
愛が消えるのだとしたらそれは、
愛とは別のものではありませんか?
なぜなら愛する人がいなくなって消えてしまう愛は、
因果の法則に囚われており、時間に束縛されています。
つまりその愛は、時間から自由ではありません。
その愛には理由があるということです。
愛することに原因はあるのか?
自分に優しいから愛してくれるから愛する、
自分の言うことを聞いてくれるから彼を愛している、
良い暮らしをさせてくれるから愛している、
このように原因のある愛情は、本当の愛ですか?
自分の益になる人を愛するのは、
何とも利己的な愛情ではありませんか?
愛に利己性が存在するでしょうか?
愛は思考によって為されるのものでしょうか?
それとも愛は原因をもたないもの、
思考や時間を超えたもので、
対象を必要としないのではありませんか?
ですから対象を必要とする憎しみとは違い、
思考から生まれる憎しみとは違い、
愛は特定の対象を必要とせず、
思考を超えたものではないでしょうか?
憎しみは自我から生まれますが、
愛は自我がむときに、
現れるものではないでしょうか?
憎しみは自我が相手に執着することで生まれますが、
愛には自我の影はありません。
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