A どうして多くの人々は、物事を二分的に見ようとしてしまう
のでしょうか。
あの人は責任感がある、あの人は責任感がない、
あの人は思いやりがある、あの人は思いやりがないという風に。
しかし正確には責任感も思いやりも、
その程度の差ではありませんか?
私 本当にそうでしょうか?
白に黒が混ざった時点でもうそれは白ではありません。
思いやりや責任感に異物が混じった時点で、
それはもはや思いやりや責任感ではなくなります。
あなたが仰るような程度の差はグレーの濃さには現れますが、
それはグレーであり白ではありません。
黒がどれだけ混ざるかによってグレーの濃さは変わりますが、
それはもう白ではないのでグレーの中に白色を
見出すことはできません。
つまりそこにはもう思いやりも責任感も存在しません。
A つまりあなたも二分的に見るということですね?
私 言葉ではなく、先程私がお話したことを考えてみてください。
黒が少しでも混じっている時点で、
それはもう真っ白ではないということであって、
決して二分的というわけでもありません。
グレーに黒が混ざっていることは事実であり、
純白とそれ以外(黒・グレー)に分類するなら
二分的ということになりますが、
世の中に白と黒しかないと申し上げている訳ではありません。
A しかし思いやりにはやはり程度があります。
私 程度があるものは思いやりではないと申し上げているのです。
あなたが仰っているのはグレーの濃淡についてであり、
グレーはもはや思いやりではなく、
何か別のものです。
白は白でしかなく、そこに他の色が混じらないかぎり、
白色に程度の差はありません。
思いやりの気持ちに我欲が混じるとき、
もうそれは思いやりでも何でもなくて何か別のものなのです。
A しかし自我のない行為などというものがありますか?
私 それをあなたと私で一緒に調べてみませんか?
自我のない行為というものがあるのかどうか。
A そのような行為は不可能です。
私 あぁ、あなたは自我のない行為は不可能だという、
結論にもう達していらっしゃるのですね?
それでは自我のない行為が可能かどうかを、
見出すことができません。
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A ええ、しかし可能ですか?
私 私たちが自分の一挙一動に注意を払うとき、
自我の働きは止みませんか?
ゲームに熱中する子供の心がゲームに奪われるように、
自然の美しさに触れると自分の悩みが消えるように、
私たちが自分の一挙一動を注視するとき、
自我が入り込む余地はありません。
A 仰りたいことはわかりますが、
いつもいつもそのように注意を払うのは無理です。
私 そうかもしれません。しかし注意散漫になったときに
気づいていることは可能ではないですか?
「考え事に夢中になっていたな」
とふと我に帰りまた注視することはできます。
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A しかしそれではいつもアンテナを張っていなければ
ならないことになります。
それでは疲れてしまいます。
私 えぇ、殆どの人はそのような鋭い観察を、
自分自身に向けることなく生活しているので、
疲労困憊してしまうでしょう。
でもそれは彼らの精神が非常に鈍くなっているからです。
ひとたび鋭利な観察が自己を焼き尽くす鍵であると気づくと、
あなたの精神は非常に鋭敏になります。
戸外の冷気に接し身震いするように、
精神は奮い起こされて鋭敏になり、
あらゆることに気づいていることが可能になります。
A なんだか疲弊して人生を楽しめなくなりそうですが。
私 そうですか?
鈍感な精神は生の精妙な美しさに気づけませんが、
鋭敏な精神はどんなに小さな美しさも、
また虚偽も見逃すことはありません。
精妙な精神こそが、私たちを危険から守ってくれるのです。
腐敗に染まることから、思いやりなく生きることから、
私たちを守ってくれるのは私たちの鋭い観察です。
誠実に美しく自由に生きることを可能にするのもまた、
鋭い観察が可能な鋭敏な精神です。
そのとき私たちのとるすべての行為に、
優しさや思いやり、責任感が浸透するのです。
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