問い
なぜ人間は虚構(フィクション)のために、
自己を犠牲にできるのでしょうか?
戦前は国家神道により天皇を中心とした国体を形成していました。
男たちは国家や家族を守るために戦場で死んでいき、
女たちは家庭や社会を守るため奉仕活動に従事した。
すべては国体を維持するという、
軍部の官僚達が創り出したフィクションに、
国民は思うがまま操られていたという見方ができます。
当時の世界情勢からしたらそうするしかなかったとは
思うのですが、なぜ人間は虚構のために
自己を犠牲にできるのでしょうか?
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フィクションに生きる私たち
事実は思考に居場所を与えませんが、
フィクションの中で思考は自由に飛び回ることができるので、
人間は事実よりフィクションに魅了されるようです。
あなたの質問について考えていたら誰だか忘れましたが、
「事実はエンターテインメントにならない」
と話されていたのを思い出しました。
フィクションは夢や希望を与えてくれますが、
事実が私たちの気分を良くすることは滅多にありません。
フィクションは自らを着飾りますが、
事実は明白でシンプルです。
人間というものはいつの時代も、
現実を直視することから逃避して、
自分たちが満足できる観念を作り上げては、
フィクションの世界のなかで生きています。
しかし見たくないものを見ないようにしても、
事実(世の中の醜さ)は変わることはありません。
残酷さ・醜さが消えてなくなることはないのです。
ありのままの現実を直視しなければ
腐敗した社会を変えることはできません。
腐敗したこの社会を変えるには、
満足を与えてくれるフィクションを手放して、
事実と向き合わなくてはならないのです。
内面の事実とは何ですか?
私たちの内面の事実とは何でしょうか?
金太郎あめのように私たちは、
どこを切っても利己的ではありませんか?
競争心や攻撃性、嫉妬や憎しみ、幸せになりたい、
人並みの暮らしがしたいというような沢山の願望で
私たちの心は一杯だというのが事実ではないですか?
私たちの醜い心が、現在の冷酷な世界を生み出したのです。
社会が醜いなのは、私たち一人一人が醜いからです。
ですから内部の醜さから逃げないで、
ありのままを観察し醜さを一掃しなければ、
社会の醜さが止むことはありません。
自分の内面にメスを入れなければ、
世の中が変わることはないのです。
私たち一人一人が変わらなければ、
世の中は決して変わりません。
変わらなければならないと感じているか?
ここまで読んであなたは自分自身が変わることの
必要性・緊急性を感じますか?
内面の利己性を一刻も早く終わらせなければならないという
緊急性・必要性を感じていますか?
それとも大きなメリットがなければ、
行動する必要性を感じないほどにあなたは利己的なのですか?
大好きな恋人にいつまでも愛してもらうためなら、
愛する家族のためなら、 あなたはどんなことでも
やるのではありませんか?
魅力的な人になりたい、もっと優しくなりたいと
思うのではありませんか?
自分磨き、自己改善、自己受容というものは、
現在多くの方が実践しているようですしね。
(↑どれも自我の働きなのでお勧めしませんが)
また悟りに達して偉大な聖者になるためなら、
あなたは内面に取りかかるのではないですか?
成功してお金持ちになるためなら、
必要な行動を直ぐに起こすでしょう?
しかし人類の苦しみや悲しみをなくすため、
腐敗した醜い社会を変えるためのアクションを、
あなたが起こさないのはどうしてですか?
それはあなたが利己的だからではありませんか?
それがあなたの欲望をそこまでそそらないから
ではないですか?
このことからもわかるように私たちは、
非常に非常に利己的です。
損得勘定で私たちはいつも行動しているのです。
世界の惨状(事実)をみても、
行動を起こす緊急性も必要性も感じないほどに
私たちは利己的で鈍感です。
欲しいものを手に入れる為ならすぐ行動するクセに、
人類の苦しみや悲しみをなくすために、
私たちが重たい腰を上げることは殆どありません。
利己性が人類に苦しみ・悲しみをもたらす
私たちが外側にもたらした利己性が、
人間の尊厳を奪っています。
私たち一人一人の利己性が、
人類に深い苦しみや悲しみをもたらしたのです。
ですから内面の利己性に取りかかりましょう。
社会活動や政治活動に取り組むことより、
世の中の醜さの根源である自分の内部の醜さを
取り除くことが必要不可欠です。
あらゆる行為に隠れている利己性を調べ観察し、
注視して利己性を焼き尽くしましょう。
(注視することで利己性が消えることは
過去の記事でお話した通りです)
私と一緒に自己観察・自己理解に、
真剣に取り組みませんか?
自分自身の利己性に取り組む人が世界に増えれば、
今のような利己的な社会は存続できません。
人間が観念でも理想でも夢や希望でもなく、
ありのままの自分と向き合う日はいったい、
いつ来るのでしょう?
そのときにようやく、平和は訪れます。
そのときにようやく、
私たちは苦しみ・悲しみから自由になるのです。
虚構の為に自己を犠牲にしたのか?
なぜ人間は虚構(フィクション)のために、
自己を犠牲にできるのか、というあなたの質問ですが。
国のため社会のため思想のためといっても、
あくまで国家や思想と一体化している自分のために
行いますので自己犠牲というよりはむしろ、
自己と同化した思想を貫くため、
自己と同化した国家のためにする利己的な行為です。
国家や思想と同化した人たちの自己は、
国家・思想の中で実に激しく活動していますので、
彼らは自己を犠牲にしているわけではありません。
むしろ自己を国家や思想の中に見出して
自己のために行動しているのです。
歴史をみてもわかるように悲しいかな私たち人間は、
自己と一体化したもの(国家・思想・宗教・観念)
のためなら、どんな残酷でも行うようです。
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