質問
もしラメッシ・バルセカールの教えである自由意志はない、
行為者はいない、起こることすべては神の意志、
の完全な理解があるとしたら、何が起きてもその人の行為ではない、
その人は何もしていないという理解があります。
もしそんな理解があれば、自分や他人をバカにして
見下すことなど不可能でしょうか?
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なぜ聖者の言葉を鵜呑みにするのか?
私自身教えを信じて疑わなかった過去があるので、
あなたにこう質問したいと思います。
どうして聖者の言葉を鵜呑みにするのですか?
ラメッシ・バルセカールという人の著書を読んだことが
ないので細かいことはわかりませんが、
このような思想 〜行為者はいない、あなたは何もしていない、
起こることは全て神の意志〜 は
インドで広く受け入れられています。
彼の教えは正しい、と確信に至るまでには、
深い考察があったのだろうと思いますが、
彼の教えはあなたにとって本当に事実ですか?
事実だったらあなたが日々行う行為に、
自我は不在の筈です。
自我という行為者は本当に不在ですか?
ご自分をよく観察してください。
あなたが今苦しんでいるとします。
苦しんでいるのは誰ですか?
それはあなたでしょう?
その自分が無いと言い張ったって苦しみはあるのでしょう?
自分が無いから苦しみも無いというような論理じゃないのです。
もう一度お訊ねします。
「行為者はいない」というのはあなたにとって事実ですか?
行為者がいないか調べる
自我という行為者がいるかどうかを調べるのは簡単です。
・他者を好き嫌いで判断していないか?
・人によって態度が変わらないか?
・自分のことばかり、
(将来の不安、仕事、恋人、人間関係について)考えてないか?
・思考が行動を決定していないか?
・過去の出来事に囚われてないか?
・意見や結論をもってないか?
・プロパガンダやイデオロギーをもってないか?
・自己中心的ではないか?
・何かに執着していないか?
ざっと挙げるとこんな感じですが如何ですか?
行為者は本当にいませんか?
起こること全ては神の意志というのは真実ですか?
それともあなたの行為はあなが自身の
快や不快によって選択されていますか?
「行為者はいない」は危険
このような思想は非常に危険です。
この思想は残虐な行為もテロ行為も正当化します。
「自分ではない、神の意志によるものだ」と主張して、
テロリストはテロ行為を行うわけですが、
この思想はテロや犯罪行為を容認することになりませんか?
インドではある程度修行して何らかの真理を体得した人は
組織を作り真理を求める人たちを信者にして
お金・名声・精神性を手にしますが、
そのような人は悟ってなどいません。
真理を悟った人が、思想を普及することはありません。
思想は概念であり、それは真理ではないからです。
思想を普及することの危険を見れない人が、
はたして悟ったと言えるのか甚だ疑問ですが、
ここで悟ったか否かを論じるのは不毛なので控えます。
ここからは彼の思想がなぜ危険なのか、
そして彼の思想に真実はあるのか、
見ていきたいと思います。
「行為者はいない」はなぜ危険?
自我の危険性を理解せずにこの言葉に出会うなら、
人はどのように反応するでしょう?
「好き勝手に生きても行為者が自分じゃないなら、
どんな事をしても自分の責任じゃない、神の責任だ」
「すべては神の意志通り、何してもOK! 何でもあり」
「テロを起こして悪人・支配者をやっつけよう、
行為者は自分じゃなくて神なんだからこれは聖戦だ」
「自分が貧しいのもカーストが最下層なのも全て、
神の思し召しだから、苦しみに耐えるしかない」
「貧しくて苦しいけど行為者がいないのなら、
自分は本当は苦しんでなどいない」
↑
インドの貧しい人たちはこう信じて、
自分たちの状況を受け入れるわけですが
彼らをそのようにさせる思想は危険ではないですか?
自我を焼き尽くしながら生きる
行為者はいないということは、
あらゆる行為の中に潜む自我を注視し、
瞬間瞬間自我を焼き尽くしながら生きる人にとっては
事実ですが、これを行うことなく、
自らの欲望・願望・私利私欲、快不快に沿って
生きている人たちにとっては事実ではありません。
自らが断片的なのに「私は宇宙だ」といっても、
それはただの理論であり真実ではないのと同じです。
小さな穴から全体を見渡すことはできないように、
断片的なあなたが自分は全体だ、宇宙だと信じても
あなたは相変わらず断片的なままなのです。
自我があなたの中で自由自在に動き回っている以上、
行為者は存在します。
また起こることすべては神の意志だというのも、
神を宇宙の摂理と捉えるのであればそれは、
自我を焼き尽くして生きる人に生まれる秩序であり、
利己的に生きる人たちにそのような秩序はありません。
断片はさらなる断片を
無秩序はさらなる無秩序を生むだけで、
秩序とはほど遠いものです。
自我を逃さない
行為者はいないという理解があれば、
他人をバカにして見下すことは不可能ではないか、
というあなたの質問ですが、
行為者が実際は存在するのにいないと仮定しても
仕方ありません。
大事なのは他人をバカにする自分、
人によって態度を変える自分を観察することであり、
希望を与えてくれる思想を信じることではありません。
こういっては質問の答えにならないので答えると、
行為者がいないとき、他者を見下すことはできません。
しかしこのことを知識として理解しただけでは、
人を嘲笑したり見下したり、はたまた仰いだりという、
愚かな行為は止みません。
大切なのはありのままの自分を観察することであって、
耳触りのよい思想を信じることではありません。
ありのままの醜い自分の姿を観察するより
思想を抱いて生きる方が楽ですが、
思想があなたを変えることはありません。
あなたを変えるのは、鋭利な観察です。
ですから内部の自我を注視することで
自我を焼き尽くしましょう。
あなたがこのようにして真剣に生きるなら、
自我は瞬間瞬間焼き尽くされるので、
他者を見下すことも仰ぐこともなくなります。
あなたの態度は思想(思考)によってではなく
鋭利な観察によって変わるのです。
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