A 自分で自分を受け容れるという表現がありますが、
この場合受け容れる自己は、受け容れられる自己より
上位にある自己ということができます。
そして上位の自己を観察するさらに上位の自己がいます。
私 自分で自分を受け入れることなど、できるのでしょうか?
あなたが仰るように、
自分を受け入れることは、
別の自己の存在なしには不可能です。
つまり自分で自分を受け入れることができるなら、
私たちの内部に別の自己がいることになります。
A そうです。
高次の自己については
宗教や過去の聖者たちも言及していますように、
それは確かに存在するようです。
私 たしかに宗教は、永遠の魂、真我、アートマン、
高次の自己、ハイヤーセルフというように、
様々な呼び方で別の自己の存在を
主張してきましたが、しかし....
私たち自身で別の自己が存在するかを見出すには、
伝統や聖人・宗教者の主張を、
いったん脇に置いておく必要がありませんか?
A .......
私 私たちが伝統を携えて答えを見出そうとすれば、
導き出す答えは伝統の色に、
ある宗教者ある聖者の主観的な色に染まりませんか?
A そうはいっても、
高次の自己は存在すると思っているので。
私 あぁ、あなたはまだ過去に囚われています。
イデオロギーやプロパガンダに縛られていたら、
あなたは鎖に繫がれた動物のように、
ある範囲までしか進むことができません。
あなたの探究は、鎖の長さに限定されるのです。
自由でなければ、私たちは探究できません。
探究するにはまず、
意見や思想、イデオロギーから自由でなければなりません。
両足が縛られていては、
私たちは決して自由ではありません。
A 現段階の考えを持ちながら、
探求していくということになります。
私 繰り返しますがそのような探究は、
鎖の長さに限定されるますので、
導き出す答えも鎖の長さに限定されます。
現段階の考えを持ちながら探究しては、
探究にバイアスがかかってしまって、
本質を見出すことはできません。
あなたが見出すものは、
過去の聖者たちが見出したものに染まるので、
あなたの答えは過去から自由ではありえず、
よってそれは真実ではありません。
私は過去の聖者と対話しているのではなく、
あなたと対話しているのです。
あなたと対話する中で、真実を見出そうとしているのです。
A 考えを持ちながら、なぜ探究できないのですか?
私 高次の自己が存在するという意見をもっていたら、
高次の自己は存在しないかもしれないという可能性を
閉め出してしまいませんか?
あなたが既に結論に至っているとき、
高次の自己の真偽をつかむことは不可能ではないですか?
A わかりました。
では高次の自己がいるのか、一緒に調べましょう。
私 自分で自分を受け入れるには、
別の自己が存在しなければできません。
自分を受け入れる、別の自己が必要です。
A そうです。
一人では受け入れたり批判したりできませんから..
私 私たちの内部を深く調べてみましょう。
あなた色に染まっていない部分が、
あなたの内部に存在しますか?
利己性に染まっていない純粋でまっさらな自己が、
内部に存在しますか?
A あるように思います。
自分が利己的なとき、
利己的ではいけないと囁く自分がいますから、
そのような自己が高次の自己だと思います。
私 本当にそうですか?
そのように囁くのは、あなたの思考ではありませんか?
思考が何が正しいか正しくないかを判断して、
あなたに囁いているのではありませんか?
A ......
私 内部に別の自己が存在するのでしょうか?
内部に別の自己がいるというのは、
思考が作り出した概念ではないですか?
限りある肉体が存在の全てだとは信じたくない思考が、
永遠の魂、真我、高次の自己という概念を
作り出したのではありませんか?
A どうしてそのように思うのですか?
私は、そのようには思いません。
私 私やあなたがどのように思うかは問題ではありません。
真偽を見出すことが大切です。
だから私はあなたにも自分自身にも問うているのです。
ご自身の思考をよく調べてください。
分類好きの思考が、分けることが得意な思考が、
ポジティブ思考とネガティブ思考を分けたように、
天国と地獄を分けたように、
自己と高次の自己を分け、
さらにそれを超えた存在(神・創造主)を、
作り出したのではありませんか?
A 私はそのようには思いません。
考え方の違いですね。
私 あなたはまだご自分の意見を手放していないようです。
あなたの考えを覆すかもしれないものに敏感に反応して、
心の扉を閉じておられます。
「私はそのようには思いません」「考え方の違い」
と言うとき、私たちは異なる意見をもつ人を、
シャットアウトしませんか?
今あなたが意見をもっているという紛れもない事実が、
私たちの間に見えない壁を築いていませんか?
A 現段階において、
そうは思わないということを述べたまでです。
私 まさにそのことを指摘しているのです。
現段階においてそうは思わないと主張することで、
わたしとあなたはもうこれ以上、
一緒に探究することはできないのです。
私が自分の意見に固執していたら、
他の意見の人との間に分離を生んでしまいます。
ですが最初から意見をもたなければ、
私はあなたや他者との間に分離をもたらすことなく、
答えを見出すまで対話することができるのです。
考えをもたなければ、分離は生じません。
意見が私とあなたを分離するのです。
A そうはいっても意見をもたないことなど不可能です。
私 本当にそうですか?
意見が分離をもたらすことを実感するなら、
それが私たちの血となり肉となるなら、
私たちは直ちに意見を手放しませんか?
意見を手放さなければ、対話は不可能ではありませんか?
意見をもたずに探究するとき、私たちは共に歩みながら、
未知なるものを発見することができるのではないですか?
A どのように言われても、
自分の考え方が覆ることはありません。
私 あなたの考えを変えようとしているのではありません。
私自身が意見をもつことの虚偽をみているので、
あなたの考えを変えようというような、
愚かなことはしません。
ただこのように私とあなたが分離するのは、
理解し合うことを邪魔しているのは、
私たちが意見をもつからだということを指摘しているのです。
世の中の殆どの争いは、意見と意見、思想と思想、
主義と主義のぶつかり合いによって起こります。
だから争いのない世界を実現するには
争いの根源である意見や主観、思想、イデオロギーを
私たちの内部から取り除くことが必要不可欠であり、
緊急課題であると自分は強く感じているのです。
少しでも役に立てたならクリックお願いします。
関連記事
真我・内在神・本当の自分は存在しない
内部に二元性は存在せずあるのはありのあままの自分だけ
0 件のコメント:
コメントを投稿