今日は激しい雨が降り続いています。

雨を眺めていると、雨の一粒一粒が私たち人間と重なります。

雨の一粒は他の雨粒と性質は同じですが、
分離して空から降ってきます。

あなたという人間は、他の人と同じように喜びや悲しみ
という感情をもち肉体を構成するものも同じですが、
分離という感覚をもって生活します。

雨の一生は空から大地までと非常に短く、大地に触れた瞬間、
分離の錯覚は終わりますが、人の一生はずっと長く、
その間私たちは自分と他人は別々の存在だと錯覚したまま、
自分の欲望、自分の野心、自分の成功、自分の理想、自分の家族と、
雨粒のように小さな自分自身に関わることだけを考えて他の
雨粒とライバルになったり争ったりしながら一生を過ごします。




人は雨粒のように、大地に触れるまで分離という錯覚に
気づかないのでしょうか?

死を迎えるまで、暗くて果てしなく続くように思われる
分離というトンネルの中で過ごす以外にないのでしょうか?

命が尽きる時にしか、分離という錯覚から
目覚めることはないのでしょうか?

私たちは眠りながら生き、眠りながら死んでゆくのでしょうか?

激しい雨を見ていたら、そんなことを思いました。




心を開いて自分自身の内部を注意深く観察するなら、
自分は他者と、本質的には何も変わらないことが理解できます。

名前や肌の色、背格好といった表面的な違いを除くと、
私たちは程度の差はあれど悩み、葛藤し、
何者かになることを夢見、理想や目標を掲げて生きています。

他の人のことは気にかけず、自分自身のこと、家族のこと、
自分の属する組織のことだけを考えて生きています。


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このように私たちが自己を大事にすればするほど、
他者との間に存在する壁はすっかり厚くなり、

そしてこぶ厚い壁が、孤独や悲しみをもたらします。

ですから自分自身の内部を調べてみませんか?

自分の行為の背後にどのような動機や願望が隠れているのか、
多くの時間どのようなことを考えて生活しているのか、
調べるのです。

どのように行動をしているのかを理解すれば、
自分自身を理解することができます。

自分の暗部が観察という光で照らされると、
暗部はもはや暗部ではなくなります。

その中心にどっしりと座っていた利己性は、
もはや居座り続けることはできません。

自我はみつかっちゃったとばかりに、静かになります。

一瞬一瞬の気づきが、私たちの内部の利己性を焼き尽くします。

利己性が止むとき、他者との間に築いた分離が、
迷妄であることを洞察します。




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真理探究に15年を費やした後あらゆる修行・規律・イデオロギーは不毛であると気づく。以来感覚だけを頼りに思考と感情を刻々と観察しながら自己について学んでいる

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