思考(過去)から自由な秩序正しい行為

2020/07/29

葛藤 矛盾 混乱 逃避 思考 理解 洞察 事実

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『過去に染まらない行為は
 あるがままの事実を見るときだけ
 可能でありそれが唯一
 混乱や葛藤を生むことのない
 全体的で秩序ある行為なのです』


 これ↑は前々回の記事の
 終わりの一文ですが
 この箇所がわかりにくかった
 という意見をいただいたので
 今回はわかりやすく
 説明できたらなと思います




過去に染まった行為とは



私たちの普段の行為は
過去に染まっています

というのは私たちの思考が行動を
決定しているからです

思考の材料は私たちの
過去の知識や経験なので
思考が現在の行為を決定する
ということはその行為は
必ず過去に染まります



困っている人を見かけた時
思考はあなたに問います

~彼女に声をかけるのが正解なのか?
 それともかけなくても問題ないか?
 しかし知らんぷりして
 通り過ぎるのは冷たくないか?~

こうして色々考えた末にあなたは
思考が採用した行動をとります

このときあなたの行動を決定したのは
あなたの思考です



先ほども少しお話しましたが...

思考は私たちがこれまで
脳に貯えてきた知識や
経験に基づいて働くので
【思考の運動は過去の運動】であり
よって思考に指示される行為は
過去から自由ではありません

つまり経験・知識が現在の行為を決定しています

そして経験や知識は
常に過去であるので
過去が現在の行動を
決定することになるのです

これが殆どの人のとる行動であり
彼らの行為は過去から決して
自由ではないのです




過去に染められない行為



しかし過去に染められない行為
というものがあります

過去が現在を支配しない行為です

思考が指示・決定しない行為
というものがあります

それはあるがままの事実を
知覚するときに生まれます



込み上げてきた怒りを
ありのままに見つめるとき
あなたの純粋な観察が
あなたに瞬時に行為を
要求します

ただ感情を観察するという行為が
即感情を取り除くので
見ることが即行うことであり
見ることと行うことに
違いはありません



あるがままの感情を見つめる
純粋な観察とは炎であり
その炎が怒りを焼き尽くします

重要なのは感情を見つめる際に
思考を働かせないことです

思考が大人しいときには
過去の運動がないので
見るという行為は過去に染まりません



感情だけでなく自分の顔を
ありのままに見ることでも
瞬時の行動は促されます

あなたの不機嫌な顔や怒った顔が
突然大きなスクリーンに
映し出されたらどうでしょう?



自分がどのような表情を
していたかに気づいて
表情は瞬時に変わりませんか?

不摂生が続いたときの
不健康そうな自分の顔が
意図せず目に入ったときは
どうでしょう?

あなたの観察が瞬時の行動を
促しませんか?

「生活を改善しよう」という
瞬時の行動を..



あなたの観察が~知覚が~
『生活を改める』行為へと誘います

注意して欲しいのは
思考ではなく観察が
行動を促すということです

つまり観察から生まれる行為に
思考の介入はありません

これは過去の介入が
ないことを意味します

つまり....

事実を観察することで生まれる行為は
思考が入り込む余地はありません



ではなぜ思考が割り込むと
矛盾や混乱が生じるのでしょうか?

なぜなら頭のいい人の思考も
そうでない人の思考も
思考というのは常に部分的だからです

彼/彼女の経験や知識は
限定されていて
完璧な知識や完全な経験
というものはありません

従って経験・知識の総体である
思考はどれも完全ではありません



思考が完全でないということは
全体ではないということ!

全体的でないということは
部分的であるということであり
部分は他の部分と必ず衝突し
対立をもたらします

何度も言っていることですが
分離のあるところ、対立は起こります

パーツは必ず他のパーツと衝突します



あなたが自らの思考に忠実に
従って行動しているかぎり
あなたは【個であり部分であり
全体ではない】ので必然的に
他者と対立するのです



例を挙げましょう

あなたが仏教徒や日本人として
行動するときキリスト教徒や
イスラム教徒、中国人や
アメリカ人と衝突します

というのは日本人とそれ以外
仏教徒とそれ以外で
あなたは区別するからです

しかしもしあなたが仏教徒や
日本人という限定された枠を
取り払い【人間として】行動するなら
アメリカ人や中国人だけでなく
他の誰をも区別しないので
誰とも対立しません

全体的な行為とは矛盾や衝突を
生まない行為を言います



ですから....

あなた独自の思考によって
決定された行為というのは
私の思考によって
決定された行為と
必ず衝突し私との間に
不和が生じてしまうのです

一方...

観察から生まれる行為には
思考という邪魔が入らないので
混乱や葛藤、不和は生じません

注意してください

あるがままの観察だけが
混乱や葛藤を招かないのであって
【部分的な観察】ではありません



もしあなたの観察が部分的なら..
~これは主観的ということですが~
主観は思考の運動なので
思考による行為は必ず
混乱や葛藤を引き起こします

一方、あなたが事実を見つめるとき
その観察は全体的なので
100人が100人とも
あなたと同じものを見ます

もちろん100人全員が
あるがままの事実を
見たらという条件付きですが..



このような全体的な観察から
生まれる行為が他者の行為と
ぶつかることなどあり得ません

だから...

過去に染まっていない行為は
あるがままの事実を見るときだけ
とることができるのであり
それが唯一混乱や葛藤を
招くことのない全体的で
秩序ある行為なのです

という一文で前々回の記事を
締めくくりました



あるがままの事実を見ること!

これが秩序正しい行為をとる秘訣です

過去に染まっていない行為
過去から自由である行為をとる秘訣です

あるがままの事実を見ることが
経験や知識に左右されずに
【現在の状況に適切に応答する秘訣】なのです



事実と真実』という記事で
真実とは事実を知覚すること
だとお伝えしましたが
真実とは難しいサンスクリッドの
マントラを唱えて出会えるもの
ではなくて事実を知覚することで
明らかになるのです

真実ってとてもシンプルでしょう?

シンプルなものが本物であることが多い

そして複雑なものは偽物である..
かもしれません(笑) 

☆☆

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真理探究に15年を費やした後あらゆる修行・規律・イデオロギーは不毛であると気づく。以来感覚だけを頼りに思考と感情を刻々と観察しながら自己について学んでいる

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