日常生活における私たちの殆どの行為は、
過去から連続したものです。
つまり私たちの殆どの行為は機械的です。
もちろん新しい結論によって、この機械的な行為が変わることはあります。
知人や書物に触発されて、行為が変わることはあります。
しかしその学習でさえも再び知識となり
今度はそれに従って行為するようになるのです
知識は過去に基づいているので知識に基づく行為は
過去を繰り返す機械的な行為なのです
レコードの溝を針が正確に動くように、
私たちは以前通った道に入り込んでその道を固めてしまうのです
普段の行動には二つのパターンがある
①考えて行動する ②まず行動する。
考えてから行動するか、行動が先かのどちらです。
両者は異なるように見えますが、
どちらも知識に基づいています。
考えて行動する場合、
自分の知識や経験に基づいて行動します。
過去に体験した賞罰や快不快に基づいて
行動は決まります。
つまり知識によって行動は決定されるのです。
もう一方はまず行動しますが、行動から学んでそれが知識となり
その知識が今後の行為を決定していきます。
よってどちらも知識に基づく行為なのです。
普段の行動は過去の繰り返し
知識から行動する限り、私たちの行為は過去の繰り返しです。
もちろんこのような私たちの普段の行為にも時折、
ひらめきが生まれます。
しかしこのひらめきもまた、知識となりパターンとなって
今後の行動を決定していくのです。
このように計算された行為、賞罰・快不快によって
入念に動機づけられた行為は善の行為ではありません。
過去に染まった行為つまり過去に囚われた行為は、
善の行為ではないのです。
善なる行為とは
善の行為とは全体的な行為です。
〃 秩序ある行為です。
〃 断片的ではない行為です。
〃 自由が本質にある行為です。
善の行為は、誰かが教えることができるものでも
書物から学べるものでもありません。
善の行為を理解し知識として蓄積することはできません。
なぜなら模倣・追従・蓄積するとき
私たちは自由を失うからです
善性が花開くとき
自由のないところに善性が花開くことはありません
植物が育つためには空間が必要なように、
精神が開花するにはまず模倣や強制、追従、知識から
自由でなければならなりません。
強制や模倣、知識の土壌で、善性は開花しません。
つまり道徳や信念、宗教的思想に基づく行為は
知識や伝統に基づいており、
知識や伝統に縛られた精神は決して自由ではなく、
自由がないところに真の行為が生まれることはないのです。
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機械的な行為はこうして生まれる
現在の私たちの行為を一掃するとき善の行為は現れます。
知識に基づくいかなる行為も、
部分的で型にはまったものだということを実感するなら、
全面的否定から善の行為・真の行為が生まれます。
あなたは疑問に思うかもしれません。
「真の行為に何故そんなにこだわるの?」と
しかし私たちが知っている行為だけを繰り返している限り、
争いや対立、衝突を生んでしまうのです。
私たちの日々の行為を問うことなく繰り返している限り
私たちのとる行為はいつも限定的で機械的なので
精神はますます鈍感になっていきます
鈍感な精神に、ものごとの真偽を見極めることはできません。
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秩序ある行為・全体的な行為
矛盾を生まない秩序ある行為は、
無秩序な行為が止んだときに始めて生まれます。
善の行為・真の行為は全体的なので、
部分的な行為のように分離や衝突を生むことはありません。
つまり、自らの行為を後悔することはなく
その行為にはいつも秩序があります。
このような秩序ある行為が生まれるには、
現在の私たちの行為がいかに部分的で断片的であるかを
理解する必要があります。
見ることが即、行為
現在の自分の行動を理解するとき、
あなたはこれまでのように無意識に機械的に
繰り返すことはありません。
その危険性を十分に理解するとき、
あなたの精神は鋭敏です
鋭敏な精神は、物事の真偽を見極めることができます。
その精神で行うことはどんなことでも、
秩序があるのです。
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