意識を空っぽにして現在〈いま〉に出会う

2020/06/01

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殆どの人は過去に生きています

全てといってもいい

多くの人が思考で現在に対応します

思考は過去の知識や経験の総体であり、
思考で現在に対処するということは、
過去で現在に対処するということです

私たちは現在という未知なるものに、
過去という既知でもって対処しているのです

そう! 

過去が現在に出会っているのです




私たちは過去に生きています

私たちの生は全部思考に基づいています

思考があらゆる行動の道具になっています

だからどの行動も自然ではありません

過去の経験や知識に基づいている行動は、
自然ではありません

自発性は自由からしか生まれません




「未来のことを考えて生きているよ
 だから過去に生きていない」と人は言います

しかし思考が過去に基づいている以上、
どれだけ未来のことを考えようと、
崇高な理想や希望を築こうと、
それは過去に染められているのです

つまり未来を考えている人もまた、
過去に生きているのです




自分が過去にしか生きていないことを
洞察した人はこう問います

私は過去から自由になれないのか?
私は思考から自由になれないのか?

というのは過去に生きている限り、
現在に出会えないとわかったから!

自分が出会う現在というのは、
過去に染められた現在であり、
自分のとる行動は過去のデータによって
弾き出された行為でしかないことがわかったから

過去のデータが現況にどんなに近くても、
過去と現在には必ずギャップがあります

このギャップが内面の葛藤となり、
他者との関係における対立となるのです




だから真剣な人はきっとこう問います

過去から自由になることはできるのか?
思考から自由になれことはできるのか?

自分が過去の総体であるとき、
どのようにして過去から自由になれるというのだろう?




あなたとは何だろう
あなたの意識とは何だろう

あなたの意識とはあなたの信じるものであり、
あなたの名前でありあなたの国籍であり、
あなたの意見でありあなたの偏見であり
あなたの結論でありあなたの観念であり
あなたの希望でありあなたの絶望であり
あなたの憂鬱でありあなたの心配であり
あなたの性的欲求でありあなたの願望であり
あなたの悲しみでありあなたの罪悪感であり
恐怖であり不安であり楽しみであり.....
この全てがあなたという意識の中身ではありませんか?
 
これらは全て過去のものです。
意識の中身は全て時間を経て蓄積したものです。

つまりあなたは過去そのものなのです。




真剣な人はきっとこう問うでしょう。

過去で一杯に詰まった意識が、
その内容物に気づくことができるのだろうかと

私もまた意識の一部であるから、
私が意識の内容物に気づくのではなく、
意識自体が自らの内容物に気づいて、
それを空にすることはできるのだろうかと問います




意識は時間と共にいわゆる『進化』してきました

この内容物を空にすることはできるでしょうか?

これはとても重要な問いです

なぜなら空にすることができなければ人は、
ずっと過去に生きることになるからです

既知から決して自由ではなく、
既知の範囲内で物事を決定し、
行動することしかできません

既知の運動に自由はありません

過去である知識や経験を総動員して、
未来を希望や理想で思い描いても、
それも過去の運動に他なりません。

このように殆どの人は過去に生きているわけですが、
彼らの精神はどうなると思いますか?

彼らは新たな技術を習得するかもしれないし、
新たな知識を入手して新たな才能を、
開花するかもしれませんが、
意識は過去というガラクタで一杯であり、
そこから生まれる行動は過去に縛られたままです

過去に生きていると脳はどうなるのでしょう?

脳は決して自由ではありません。

脳は機械的になります

脳はひたすら蓄積された過去を繰り返すだけです




だから真剣に生きようとする人は、
意識の内容物を瞬時に洞察し、
空にすることは可能かどうかを、
見出さなければなりません。

あなたという意識の全構造を、
意識全体の流れを全体的に、
観察しなければなりません。




何かを全体として見たことがありますか?

枝や葉だけでなく木全体を、
旦那さんという人間の全体を、
その性質を全体として見ることができますか?

顔というような限られた部分ではなく

過去の記憶を働かせることなく、
〜それはつまり思考を働かせずに〜
観察することができますか?




全体として見ることができるのは、
中心の『私・自我』がいないときだけです。

『私』とは先程挙げた意識の内容物であり、
それはとても小さくて狭量なので、
『私』を通して物事を見ていても、
全体として見ることはできません。

それでは『私』を構成する意識そのものを、
意識全体の流れを観察することはできません。

全体を観察するためには純粋な観察が必要です。

好き嫌いや偏見や結論が止まなければ、
〜『私』という運動が止まらなければ〜
純粋に観察することはできません。




『私』という広大な意識の流れを、
その複雑な流れを純粋な目で
過去に染まっていない目で観察するとき、
あなたを構成している『私』、
過去で詰まった意識は空っぽになります

内面を既知なるものから空しくするとき、
あなたはようやく新たなものに出会えます

現在〈いま〉に出会えます

あるがままの事実に出会えるのです



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真理探究に15年を費やした後あらゆる修行・規律・イデオロギーは不毛であると気づく。以来感覚だけを頼りに思考と感情を刻々と観察しながら自己について学んでいる

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