A 1度、人に対してイメージをもってしまうと
  それから会わずに何年か過ぎても
  以前抱いたイメージを携えたまま
  会うというのは致し方ないことでしょうか?

  昨日のその人は今日のその人とは違うかもしれないのに…
  ↓
  ↓
私 本当にそうですね

  自分自身のことをよく観察してみると
  日々変化していることは明白ではありませんか?

  【数年前のあなた】と【現在のあなた】では
   随分と違うのではないでしょうか?

  自分自身をちゃんと見つめている人なら尚更
  新たな自分を日々発見するでしょうから
  考え方も生き方も性格も以前とは異なるはずです

  だから過去に抱いた~「横柄」「意地悪」~イメージを
  携えたまま相手と関わるのは危険だということがわかります

  ※『イメージを手放さなければ真の関係はない




A やはりそうですよね…
  しかしイメージから抜け出すのは大変です
  実践できるよう努めてはいますが…

私 過去に相手に抱いた感情や印象を払拭しなければ
  いま目の前にいる相手と関わることができない、
  理解することができないことが分かると
  イメージを握りしめている手を緩めないでしょうか?

  理解がイメージ作りとイメージ保持の両方を
  終焉するのであって「意志の力」ではありません

  しかしもし「イメージをもつのは良くない」ことを
  あなたが知的に理解しただけならそれは頭による理解
  なので頭と心で理解する全体的な理解なくして
  終焉することのないイメージはいつまでも
  あなたに影のように付いてまわりイメージから
  自由になるための「努力」が必要となります

  ※『全体的な理解・観察について



  つまりイメージから自由になるためには
  頭による理解ではなく全体的な理解が
  不可欠であり全体的な理解とはイメージを
  もつことの危険を見ることなのです

  そして本当にイメージ作りの危険を見る
  ~知的にそして知覚を伴った感情とともに
  危険を洞察すると~イメージ製造機である思考が
  働き出す瞬間を捉えることができるので
  イメージを携えたまま人と関わることはなくなります

  だから大切なのはイメージをもつことの危険を
  洞察することです

  ここからはイメージを持つことの危険を理解するためにも
  イメージを持つとどうなるのか詳しく見ていきましょう

A はい




私 相手について悪いイメージをもっていると
  相手を見る私の目はそのイメージ色に染まるので
  あるがままの相手を正しく見ることができません

  悪いイメージをもったまま相手と接すると
  相手のする事なす事全てが気に入らないので
  相手をきちんと見て理解することができません

  つまりイメージをもっているせいで私は
  相手の良い所を発見することができないのです

A 「いやいや、気づけるよ」と主張する人もいるかもしれません

私 そうですね、しかし彼らの気づきは必ず部分的です

  ※『部分的な気づきについて



  相手について何かしらイメージをもっている人は
  イメージというカーテン越しにしか見れないので
  彼らの観察は全体的ではなく部分的です

  完全なる気づき、全体的な観察を邪魔するのは
  私たちが持っているイメージだということです

  彼らが見つけた相手の美点は
  過去に抱いた悪い印象の分だけ差し引かれます

  どういうことかというと相手の美点が10だとしたら
  彼らが見出す美点は必ずそれ以下になります
  
  つまり…

  私たちがイメージをもっているかぎり
  イメージが相手と自分の間に入り込むので
  全体的な観察を邪魔します

  イメージが相手を脚色し解釈するのです
  
  別の言い方をすると…

  私は自分がこしらえた相手のイメージと関わるだけで
  目の前の相手と接しているわけではないのです

  これでは自分の思考と戯れているだけで
  目の前の相手と関わることなどできません

  つまり…

  人と関わること、理解することを難しくしているのは
  私やあなたがもっているイメージなのです

  これがイメージをもつことの危険です

  このことを洞察すると思考によるイメージ作りが
  終焉します




  もう1つ言えることは…

  本当に相手に関心を持っているときには
  過去に抱いた相手のイメージなんか投げ捨てて
  相手の一挙手一投足に私たちは気を配るはずです

  相手のことを理解したいという想いがあれば
  つき合い始めたばかりの恋人たちのように
  相手の言動や表情に細心の注意・ケア
  愛情を注ぐのではないですか?

  この最新の注意・ケアこそが愛です

  関心があるということは対象に
  愛があることを意味します

  つまり相手を知りたいという想い・関心が
  自らがこしらえた頑固なイメージを粉砕するのです

  ※『細心の注意・ケア・観察




A 仰る通りだと思います
  しかし人は変わらないという方もいます

  『数年の間に大きく変化した人を見たことがない
  土台が変化する人は少ないから、イメージを持っていても
  別に問題はない、会うたびに微調整すればいいだけ』

  こう私の友人なんかは言います

私 人は簡単に変わらない、というのは事実でしょう
  
  これは周りを見渡せば一目瞭然です

  人が簡単に変わらないのは殆どの人の生が
  過去を繰り返すだけの人生だからです

  99%の人が過去に生きているからです
 
  過去に生きているとはどういうことかというと
  何千もの昨日の悲しみや憎しみを引きずって
  いまを生きている、ということです

  殆どの人は毎日似たようなことに傷つき憤慨し
  喧嘩します

  欲望も願望もその中身は変わっても
  欲望に支配された生をずっと生きています

  イメージを持つということにしても
  多くの人が過去を大事に携えて生きている証拠です

  なぜならイメージを持つということは
  過去に抱いた感情や印象を現在に持ち越すことだからです

  イメージを持つということは
  現在接している相手やモノや自然を
  過去に抱いた印象や得た知識で
  判断し理解するということです

  これはどういうことかというと
  私たちは過去で現在を理解しようとしているのです

  イメージや知識はどれも過去に基づくので
  彼は決して過去からは自由ではないし
  過去から自由じゃなければ現在目の前にいる
  相手を歪みなく見て理解することはできないので
  これがケンカや衝突の原因になります

  ですから過去のイメージに囚われた観察しか
  できない人が大きく変容した人を見たことがない
  と言っても彼の言葉は信憑性に欠けます

  というのは、過去に囚われている人が
  相手の微妙な変化に気づくことはできないからです

  それに人が大きく変化しないからといって、
  イメージを持っていいということにはなりません

  大切なのはイメージを持つことの危険をみて
  早急にイメージを一掃することです

  さもなければ相手の精妙な心の変化には気づけないし
  理解も真に関わることもできません

  また微調整とは過去に基づく調整であるので
  微調整するということはその人は時間、つまり
  エゴから自由ではないことを意味します

  なぜここでエゴの話を持ち出すかというと
  エゴこそがイメージ作り・イメージ保持の犯人
  であり微調整しようとするエゴが存在するかぎり
  イメージから自由になることはないことを
  お伝えするためです

  繰り返しになりますがイメージというカーテン越しに
  モノや人を見ているかぎり対象を正しく観察することは
  できないので真の関わりをイメージが不可能にします

  またイメージ作りをしているのはエゴです

  つまりイメージを手放さないということは
  エゴ~自我~を手放さないということです

  イメージ作りをしている自我が止まなければ
  主観から離れた全体的な観察、エゴから自由な
  純粋な観察は不可能です



  人は全体的な観察なくして 
  秩序ある正しい行動をとることはできません

  というのは秩序ある正しい行為は
  エゴから自由な観察から生じるものだからです

  だからこそエゴそのものであるイメージを
  払拭しなければなりません
  

  

A 人付き合いするのに相手を「このような人だ」
  と把握するのは重要だと言う人もいます

  毎回相手を初対面の様に観察してたら疲れると…


私 殆どの人はイメージを伴った観察に慣れきっているので
  ここでお伝えしている注意深い観察を行ってみると
  わかりますが物凄く疲れます
  
  私たちの脳は最初はイメージを築くことに
  安定を求めたのではないかと思います

  というのは毎回相手を初対面のように観察するには
  莫大なエネルギーが必要だからです

  脳は少しでもエネルギーをセーブしようとして
  イメージを築いたのだと思います

  脳は、相手のイメージを築くことによって
  あらかじめどういう人間かを把握しておいた方が
  楽で安全だと考えたのでしょう

  毎回注意深く観察しなくてすむよう
  脳はイメージ作りを始めたのでしょう

  そこに安定があると信じて…

  しかし実際は安定を求めて行ったイメージ作りが
  人間関係に支障をきたしています

  イメージが人間関係を破壊し、相互理解を不可能にしています

  これは脳にとって誤算だったに違いありませんが
  イメージを築くことが既に当たり前になっているので
  あなたやわたしが自発的にイメージ作りの危険を
  見なければこれからもイメージ作りは続きます

  だからこそイメージを持つことの危険を
  理解することが大切なのです

  本当の安全とはたとえ莫大なエネルギーが必要だとしても
  目の前の相手を注意深く観察して理解することにあります

  イメージは概念ですが注意深い観察は事実であり
  真実を明らかにするのはいつだって事実だからです

  事実を理解することに安定があるのであって
  混乱や葛藤を生み出す概念ではないのです

  脳はイメージに頼っている方がたしかに楽です

  しかしそのような鈍感な脳は機敏ではないし
  繊細ではないので全体に気づくことはできません

  怠慢な脳は美しさや醜さ、あるがままの事実に
  気づけません

  事実に俊敏に適切に対処できないことこそが
  本当は1番危険なのです

  ですから脳を怠慢にして真の人間関係を
  阻むイメージの危険性を見て
  一切のイメージを落としましょう



  関連記事
  心理的記憶を一掃して人と本当に関わる
  対話:経験を捨てなければ人と関われない
  心理的記憶とイメージを一掃すると真の人間関係は生まれる
  人の態度や言葉にイライラ・モヤモヤして辛い…その正体は…

  ☆☆

  相談を承っております

  詳細はこちらをご覧ください
  →オンライン相談について

このブログを検索

アーカイブ

自己紹介

自分の写真
真理探究に15年を費やした後あらゆる修行・規律・イデオロギーは不毛であると気づく。以来感覚だけを頼りに思考と感情を刻々と観察しながら自己について学んでいる

問い合わせ

名前

メール *

メッセージ *

QooQ