自己理解=観念(高次の自己)ではなく事実(あるがまま)の観察

2020/05/11

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A 自分自身を知るということの重要性がよく言われますが
  どうすれば自分自身を知ることができますか?

  自分の心が傾きやすい傾向性ということなら
  様々な出会いに対しての心の動き方(反応)を
  観察することで知ることができます

  しかし私が言っている「自分」というのは
  そのもっと奥にある自分です

  心の傾向性ではなく「自分そのもの」です

私 人との関係、自然との関係、動物やお金との関係を鏡にして
  そこに映ったあるがままの「自分」の姿を刻々と
  観察することで自己を理解できるのではないですか?

  日々の暮らしの中で「私」という意識全体に全体的に
  気づくことで「自分」というものが見えてきませんか?

  ※『関係という鏡で自己を観察して理解する




A 意識全体とはどういう意味ですか?

私 意識全体、それはつまり独自の意見や知識
  経験・理想・信仰・信念・観念・野心
  価値観・好き嫌い・怒り・憎しみ・嫉妬
  欲望・快楽・孤立感・恐怖・不満・不安
  寂しさ・惨めさ・不幸・絶望・比較・攻撃性
  暴力性・残虐性・冷酷・傲慢さ・優越感
  劣等感・こだわり・愚かさ・怠惰・薄っぺらさ
  俗物根性・楽しみ・喜び、など私たちが感じる全てです

  これが「自分」というものの全てではないですか?

  これ以外の「自分」が存在するでしょうか?

  宗教書に書かれた「真我」「高次の自己」という観念を
  ただ受け容れるのではなくあなた自身の意識を調べて
  そこから答えを見い出してください

  あなたが仰る「もっと奥にある自分」が
  伝統や特定の思想の刷り込みではないか調べましょう

  「もっと奥にある自分」という描写から
  あなたには既に「高次の自己」という概念が
  ふわっと or 明確にあってまだ【それらしい自己】
  に出会えていないからこの問いを立てられた
  のではないでしょうか?

  ※『真我』についてはコチラ




A そうなのかもしれませんが宗教書や哲学書を
  1度でも真剣に読んだことのある人なら
  自分が認識することのできる意識以外の意識
  自分以外の自分が存在することを知っています

私 しかしその知識はどこまでいっても
  知識でしかありません

  つまり知識として知っているだけで
  あなたにとってそれは事実ではありません

  また知識はあくまでも既知のものです

  一方、真実はそうではありません

  観念を頭で理解してそれを追い求めることと
  真実に触れることは全然違います

  道をただ知っていることと歩くことは違うように…

  ですから先人が見出した真実と思われるものを
  鵜呑みにせずに自分自身で真偽を見出しましょう



  「高次の自己」が存在するともしないとも
  結論づけずに『わからない』から始めなければ
  自由に探究することはできません

  あるがままの事実に触れることはできません

  なぜなら…

  「高次の自己」が存在すると仮定して
  探究を進めると【存在しない】という答えに
  辿り着く可能性はゼロですがいかなる結論にも
  至らなければ答えを制限されずに自由に探究できます

  また結論に至らずに『わからない』から始める精神は
  エネルギッシュです

  なにしろ自分で見出そうというのですから
  精神は鋭敏で強靭で目覚めています

  一方、結論に至った精神はすでに答えを
  知っていると思っているので探究に不可欠な
  情熱やエネルギー、注意力はありません
 
  つまり、結論に安住する精神は自分という
  意識全体の流れを注意深く観察することができないのです

  自分という意識全体を歪みなく見つめられないのに
  【高次の自己】が存在するかしないか見出せるハズもありません

  わかるでしょうか?

  結論に至ること、特定の観念を信じることで
  対象物をあるがままに観察することはできなくなります

  ※『結論を手放して「わからない」から始めよう



  私たちの困難は既知~観念・結論~を手放さずして
  未知のものを望むことなのです

  既知を手放さずに未知を見出すことなんてできないのに…

  私たちが知っている意識は先に挙げた意識です

  それ以上の意識が存在するかどうか現時点でわかりません

  これが事実で『真我』『高次の自己』は単なる観念です

  繰り返します

  私たちが知っている意識は感情と思考と知覚です

  私たちはこれ以上のものを知りません

  あなたが自分の意識の中身にうんざりしようと
  それが現在のあなたの意識の全容なのです

  この事実を直視しましょう

  『真我』や『高次の自己』といった観念は
  放っておいて事実~あるがまま~だけを注視します

  殆どの人は事実から離れて観念を追い求めるから
  真実が掴めずに迷子になるのです

  ※『正しさがわからないのは事実を見つめていないから



  ですからあるがままの意識~事実~を注視しましょう

  意識を超えた意識に想いを馳せるのではなく
  イメージや観念を追い求めるのでもなく
  あなたが知っている意識をありのままに注視します

  というのはそうしなければまだ見ぬ意識というものが
  存在するとしてもそれに出会えないからです

  ですからどのような結論にも至らずに
  自分で真実を見出すのだという気持ちで
  まっさらな目と自由な心と空っぽの頭で
  あるがままの心を見つめましょう

  そうでなければあなたの観察はあなたの結論の色に染まり
  物事を丸ごと純粋に観察することはできません

  知性で捉えることのできないものを
  思考というスクリーン越しにどれだけ
  凝視しても未知に出会うことはできないのです

  未知~新たなもの~に出会うためには
  既知を捨てなければなりません

  真理(未知)に出会うためには
  思考(既知)から自由でなければなりません

  というのは、思考を挟まない全体的な観察だけが
  未知なるものを明らかにするからです

  このことが本当に理解されると
  あなたの観察があなたの知りたいことを明らかにします

  憎しみや苦しみ、知識や信念なんかでいっぱいに
  詰まったあなたの意識は観察という光に照らされて消滅します

  このときにようやくあなたは自己という縛りのない
  意識に触れることができます

  あなたの結論やあなたの知識があなたを深いところに
  連れていってくれるわけではありません

  あらゆる既知を振り落とした鋭利な精神が
  新たなるものを開示します




A しかし… たとえば自分の怒りを観察しても
  怒りはなくなりませんよ

私 それは怒りを注視しているあいだ
  思考が黙っていないからではないでしょうか?

  あなたはどのように怒りを注視しますか?

  あなた自身を怒りから切り離して
  怒りとは無関係の観察者として、
  客観的に怒りを観察していませんか?
  
  何が言いたいかというと…
  観察者と観察されるもの~怒り~を分けて
  観察者であるあなたが怒りを認識するかぎり
  ~認識は思考が作動している証拠なので~
  思考の運動である怒りが終焉することはありません

  一方、怒りをあるがままに注視すると
  思考の運動はピタリと止まります

  思考が止むということは
  自己~エゴ~が止むということなので
  エゴから生じる怒りはエゴの存在なくして
  存在し続けることはできないのです

  ※『観察者のいない観察が感情を焼き尽くす



A 思考が入り込む観察は必ず部分的なので
  怒りを丸ごと観察しないかぎり
  怒りはなくならないということですね?

  あるがままを見るというのは、
  価値判断をしないで見るということですね。

私  はい、

  価値判断なしに感情を見つめるのは最初は難しいので
  思考の介入なしに自然を観察することから始めてください

  木を見るとき、山を見るとき、空を見るとき
  花を見るとき「なんて美しいんだ!」とか
  「昨日の空のほうが青かったな~」とか
  「花の名前が思い出せないな~」などという
  思考を交えずただ純粋に見ます、知覚します

  これと同じようにあなたの感情や思考、
  あなたの奥さんやお子さんを見つめてください

  世界で起きていることを思考を交えずに
  あるがままに見つめてください

  このように思考を介入させない純粋な観察によってのみ
  真実は明らかになります



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真理探究に15年を費やした後あらゆる修行・規律・イデオロギーは不毛であると気づく。以来感覚だけを頼りに思考と感情を刻々と観察しながら自己について学んでいる

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