対話:経験を捨てなければ人と関われない

2020/04/18

イメージ 概念 エネルギー 情熱 依存 執着 関係 思い込み 条件付け 思考 利己的な私

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私 ご自分が体験されたものを手放すことなく、
  あなたはこれまで話をされてきました。

  『真我』『至高者』『輪廻転生』という、
  ご自分が信じて疑わないものについて話をされますが、
  その一切を一旦脇に置いてそれが事実であるかどうか、
  共に調べようとしてはおられないようです。

  どういうことかというとあなたは、
  ご自分が見出したものに囚われています。
  
  あなたは経験、つまり過去に囚われています。

  過去の経験や知識に繫がれたままなので、
  あなたはその範囲でしか動くことができません。

  真我や至高者が存在しないという可能性、
  輪廻転生が観念である可能性を、
  あなたは最初から閉め出しているので、
  あなたの探究は自身の知識・経験の範囲内にとどまります。

  



  そして限定された思考が主張します。 
  「私は知っている、君は知らない、だから教えてあげよう」と.

  このような想いで最初から話をされているので、
  私たちは理解し合うことができません。

  あなたの知識や経験が私とあなたとの間に割り込んで、
  大きな壁を築くからです。

  あなたはその知識越しにしか私を見ないので、
  私に対するあなたの理解はその知識に限定され、
  私をありのままに理解することも、
  真に関わることもできません。



A どちらかが見出したものに対して、
  どのようにして共有するのですか?

私 あなたが見出されたものは、
  既に終わったことだということがわからないのですか?
  
  どんなに価値ある発見でもそれはもう、
  過去であり既知でありガラクタに過ぎません。

  そしてガラクタだと気づけば、
  それを人と共有しようなどとは思わないでしょう。

  自分の過去の体験を語ることは、
  若かった頃の話を延々に自慢してくる老人と変わりません。



  知識は精神的領域外においては大変役に立ちますが、
  事実を歪めてしまうだけの精神的な知識は有害です。

  私があなたの過去の言動(←精神的な知識・経験)を、
  覚えていると、私はイメージを通してしか、
  あなたを見ることができません。
 
  つまり過去の記憶やイメージをもっているせいで、
  私は目の前のあなたを見ることができません。

  このように精神的な知識や経験は、
  事実を歪め、理解し合うことを妨げます。
 
  



  ですから大切なのは個々の体験や知識を共有することではなく、
  現在における未知なるものを対話を通して見出すことです。
  
  そのためにはお互いが知識・経験を捨て、
 「わからない」から始めなければなりません。
  
  一切の既知を頭から追い出さなければ、
  私たちが本当に関わり合うことも、
  何かを発見することもできないからです。



A では一緒に調べた答えをどうやって精査するのですか?

  お互いが直感や観ることによって、
  相手の言うことを正しいかどうか判断できないかぎり、
  他人と何を共有できるというのでしょうか?

  相手の言っていることが妄想としか思えないと思います。
  

私 まず私たちが共に探究しているときには、
  意見の一致不一致、経験同士のぶつかり合いはありません。

  初めに対立の種を全て捨てたからです。

  そして主題を一緒に慎重に調べていく過程において、
  私たちはとても真剣です。

  自分たちの探究が既知に染まった時点で、
  正しい答えに辿り着けなくなることを理解している二人は、
  条件付けや思い込み、妄想に敏感です。

  つまり個々の条件付けや思い込みを、
  私たちは指摘し合いながら対話を進めていくので、
  条件付けや思い込み、妄想に陥ることはありません。
  
  このような対話によって、知性は研ぎ澄まされていきます。

  この過程において見出される答えは、
  もう十分慎重に精査されているので、
  後で精査する必要はありません。

  もし導き出された答えに納得しなければ、
  もう一度初めからやり直してもいいですし、
  他の人あるいは自分で探究されたらよいと思います。



A 一緒に見出すことは現状、私とあなたとでは、
  宇宙の認識にあまりにも差がありすぎるように思います。

  私は悟りも意識の広がりも愛も、
  比較にならないところにいます。


私 先程も申し上げましたが〈あなたの知識・経験〉が、
  私との間に壁を築いたのではありませんか?

  あなた自身の傲慢さにお気づきですか?

  あなたの経験があなたを傲慢にしているのではないですか?

 〈あなたの知識・経験〉があなたを上へ、
  そして私を下へ置いたのではありませんか?

 〈あなたの知識・経験〉が本来分離のないところに、
  精神的な分離をもたらしたのではありませんか?
 
          [関連記事:分離という迷妄


 〈あなたの知識・経験〉が共に探究することを、
  邪魔しているのではないですか?

  あなたが過去の経験をすっかり脇に置くなら、
  意識の広がりやなんかに関係なく、
  私とだけでなく真剣な人となら誰とでも、
  探究することはできるのではないでしょうか。

  これから探究していくことに真剣なら、
  その情熱が両者の間にある頑固な虚偽の壁を、 
  〜 個々の利己性や偏見、経験や知識 〜
  破壊しながら突き進んでいくことができるので、
  最終的には個々の主観から自由な答えに、
  辿りつけるのではないでしょうか?



  私たちはある結論に至った時点で......
 『やっと到達した』と言った時点で新たなものを、
  発見することはできないのではないですか?

  なぜなら私たちが至った結論が権威となり、
  その権威が私たちが観察するものを指定し、
  権威が観察したものを判断するので、
  私たちの観察は常に結論の色に染まり、
  あるがままの事実を見ることはできないからです。

  知っている精神というのは湯船に浸かって、
  安心しきっている精神のようであり、
  のんびりとした精神は緩んでいるので、
  新たなものを見出す鋭敏さを持ち合わせていません。

  一方わからない精神というのは、
  わからないのであらゆる方向に開いており、
  あらゆる変化に敏感に気づくことができます。

  このように何にも囚われない自由な精神だけが、
  未知なるものを見出すことができます。



  対話の美しさは共に調べていくなかで、
  一人では気づけなかった条件付けに、
  気づくことができることにあります。

  対話を通して私たちは、
  共に自我の動きに気づくことができます。

  個々の条件付けや自我から一緒に
  自由になることができることが、
  対話の素晴らしさではないでしょうか!

  私とあなたの関係は上下関係ではなく、
  「知っている人」「知らない人」という関係でもなく、
  常に対等で横並びに歩く友人のような関係です。

  このように双方の間に何の隔たりも、
  どのような強制も権威もないとき、
  私たちはお互いを理解しながら、
  新たなものを発見することができます。

  そしてこのような対話は知識や経験による分離が、
  ないときのみ、成立します。
  
  私はただ並んで歩く友のように、
  世界の問題について、私たちの利己性について、
  自由について、生きることについて、
  あなたと対話できたらとの想いでいましたが、
  あなたがご自身の経験を手放さないかぎり、
  何を話し合おうと私たちは決して関わることはできないのです。

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真理探究に15年を費やした後あらゆる修行・規律・イデオロギーは不毛であると気づく。以来感覚だけを頼りに思考と感情を刻々と観察しながら自己について学んでいる

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