私 ご自分が体験されたものを手放すことなく、
あなたはこれまで話をされてきました。
『真我』『至高者』『輪廻転生』という、
ご自分が信じて疑わないものについて話をされますが、
その一切を一旦脇に置いてそれが事実であるかどうか、
共に調べようとしてはおられないようです。
どういうことかというとあなたは、
ご自分が見出したものに囚われています。
あなたは経験、つまり過去に囚われています。
過去の経験や知識に繫がれたままなので、
あなたはその範囲でしか動くことができません。
真我や至高者が存在しないという可能性、
輪廻転生が観念である可能性を、
あなたは最初から閉め出しているので、
あなたの探究は自身の知識・経験の範囲内にとどまります。
そして限定された思考が主張します。
「私は知っている、君は知らない、だから教えてあげよう」と.
このような想いで最初から話をされているので、
私たちは理解し合うことができません。
あなたの知識や経験が私とあなたとの間に割り込んで、
大きな壁を築くからです。
あなたはその知識越しにしか私を見ないので、
私に対するあなたの理解はその知識に限定され、
私をありのままに理解することも、
真に関わることもできません。
A どちらかが見出したものに対して、
どのようにして共有するのですか?
私 あなたが見出されたものは、
既に終わったことだということがわからないのですか?
どんなに価値ある発見でもそれはもう、
過去であり既知でありガラクタに過ぎません。
そしてガラクタだと気づけば、
それを人と共有しようなどとは思わないでしょう。
自分の過去の体験を語ることは、
若かった頃の話を延々に自慢してくる老人と変わりません。
知識は精神的領域外においては大変役に立ちますが、
事実を歪めてしまうだけの精神的な知識は有害です。
私があなたの過去の言動(←精神的な知識・経験)を、
覚えていると、私はイメージを通してしか、
あなたを見ることができません。
つまり過去の記憶やイメージをもっているせいで、
私は目の前のあなたを見ることができません。
このように精神的な知識や経験は、
事実を歪め、理解し合うことを妨げます。
ですから大切なのは個々の体験や知識を共有することではなく、
現在における未知なるものを対話を通して見出すことです。
そのためにはお互いが知識・経験を捨て、
「わからない」から始めなければなりません。
一切の既知を頭から追い出さなければ、
私たちが本当に関わり合うことも、
何かを発見することもできないからです。
A では一緒に調べた答えをどうやって精査するのですか?
お互いが直感や観ることによって、
相手の言うことを正しいかどうか判断できないかぎり、
他人と何を共有できるというのでしょうか?
相手の言っていることが妄想としか思えないと思います。
私 まず私たちが共に探究しているときには、
意見の一致不一致、経験同士のぶつかり合いはありません。
初めに対立の種を全て捨てたからです。
そして主題を一緒に慎重に調べていく過程において、
私たちはとても真剣です。
自分たちの探究が既知に染まった時点で、
正しい答えに辿り着けなくなることを理解している二人は、
条件付けや思い込み、妄想に敏感です。
つまり個々の条件付けや思い込みを、
私たちは指摘し合いながら対話を進めていくので、
条件付けや思い込み、妄想に陥ることはありません。
このような対話によって、知性は研ぎ澄まされていきます。
この過程において見出される答えは、
もう十分慎重に精査されているので、
後で精査する必要はありません。
もし導き出された答えに納得しなければ、
もう一度初めからやり直してもいいですし、
他の人あるいは自分で探究されたらよいと思います。
A 一緒に見出すことは現状、私とあなたとでは、
宇宙の認識にあまりにも差がありすぎるように思います。
私は悟りも意識の広がりも愛も、
比較にならないところにいます。
私 先程も申し上げましたが〈あなたの知識・経験〉が、
私との間に壁を築いたのではありませんか?
あなた自身の傲慢さにお気づきですか?
あなたの経験があなたを傲慢にしているのではないですか?
〈あなたの知識・経験〉があなたを上へ、
そして私を下へ置いたのではありませんか?
〈あなたの知識・経験〉が本来分離のないところに、
精神的な分離をもたらしたのではありませんか?
[関連記事:分離という迷妄]
〈あなたの知識・経験〉が共に探究することを、
邪魔しているのではないですか?
あなたが過去の経験をすっかり脇に置くなら、
意識の広がりやなんかに関係なく、
私とだけでなく真剣な人となら誰とでも、
探究することはできるのではないでしょうか。
これから探究していくことに真剣なら、
その情熱が両者の間にある頑固な虚偽の壁を、
〜 個々の利己性や偏見、経験や知識 〜
破壊しながら突き進んでいくことができるので、
最終的には個々の主観から自由な答えに、
辿りつけるのではないでしょうか?
私たちはある結論に至った時点で......
『やっと到達した』と言った時点で新たなものを、
発見することはできないのではないですか?
なぜなら私たちが至った結論が権威となり、
その権威が私たちが観察するものを指定し、
権威が観察したものを判断するので、
私たちの観察は常に結論の色に染まり、
あるがままの事実を見ることはできないからです。
知っている精神というのは湯船に浸かって、
安心しきっている精神のようであり、
のんびりとした精神は緩んでいるので、
新たなものを見出す鋭敏さを持ち合わせていません。
一方わからない精神というのは、
わからないのであらゆる方向に開いており、
あらゆる変化に敏感に気づくことができます。
このように何にも囚われない自由な精神だけが、
未知なるものを見出すことができます。
対話の美しさは共に調べていくなかで、
一人では気づけなかった条件付けに、
気づくことができることにあります。
対話を通して私たちは、
共に自我の動きに気づくことができます。
個々の条件付けや自我から一緒に、
自由になることができることが、
対話の素晴らしさではないでしょうか!
私とあなたの関係は上下関係ではなく、
「知っている人」「知らない人」という関係でもなく、
常に対等で横並びに歩く友人のような関係です。
このように双方の間に何の隔たりも、
どのような強制も権威もないとき、
私たちはお互いを理解しながら、
新たなものを発見することができます。
そしてこのような対話は知識や経験による分離が、
ないときのみ、成立します。
私はただ並んで歩く友のように、
世界の問題について、私たちの利己性について、
自由について、生きることについて、
あなたと対話できたらとの想いでいましたが、
あなたがご自身の経験を手放さないかぎり、
何を話し合おうと私たちは決して関わることはできないのです。
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