質問
怖がっている自分を観ている自分は、怖がっていますか?
思考者は思考の一部
私たちは日々様々なことを考えます
思考から切り離して自分を思考者として
一段高い場所に置いています
このようにして私たちは【思考者である自分】と
【思考】という二元性を作り出しました
もし本当に二元性が存在するのであれば
思考者であるあなたは思考を制御したり
超越しようとしたりできるわけですが
思考から【あなた】を切り離して
思考者を作り出したのは他でもない思考です
つまり【思考者であるあなた】は思考の一部です
あなたは思考そのものなのです
なぜなら思考が存在しなければ
思考者は存在できないからです
このことからもわかるように思考者は
思考の産物です
ですから実際は思考の一部である思考者が
思考をコントロールすることはできません
ここからは恐怖について調べていきましょう
あなたは恐怖の一部
あなたが一人ぼっちになることを恐れているとします
さてこのときあなたの内側があなたの感じている恐怖に
染まらない部分があるでしょうか?
それともあなたは恐怖そのものですか?
私たちは思考や感情を制御するよう教えられてきたので
コントロールできるものだと思い込んでいます
それは恐怖についても同じです
好ましくない思考や感情はコントロールできるし
またそうするべきだと私たちは思っています
しかし、たとえば恐怖という感情を
コントロールできるのは私たちの内部に
恐怖には染まることのない恐怖とは
異なる性質をもつ部分がある場合に限ります
恐怖に決して染まることのない
【観察者であるあなた】が内に存在しなければ
恐怖をコントロールすることはできません
しかしあなたと恐怖はそもそも分かれていません
あなたは恐怖の一部です
恐怖を見つめているあなたは怒りの一部分なのです
長い年月にわたり、私たちは教育や宗教を通して
感情はコントロール可能であるように
刷り込まれてきましたが恐怖を感じるときには、
恐怖を観察しているあなたも恐怖の一部です
つまり内部に二元性なんてものは存在しないのです
【あなた】と【感情】を分離することなど
できないのに感情を抑えることのできる
『存在』がどこにいるというのでしょう?
二元性が存在しないことがわかると...
二元性が存在しないことがわかると感情を抑制したり
超越したり昇華したりといった無駄な行為は止みます
その行為の愚かさがわかるからです
二元性が存在しないことがわかると、葛藤は終焉します
分離が存在するところにしか
葛藤は生じないからです
するとどうなりますか?
抑制したり超越したり昇華するために
いつもせわしなく動き回っていた
自我の運動がピタリと止みます
こうして感情の根源である自我(エゴ)が沈黙すると
感情はもはや存在することはできません
このように感情は働きかけ得るものではなく
感情にとどまることで消滅するものなのです
なぜ恐怖から自由になれない?
殆どの人が恐怖から自由になれないのは
感情から逃げようとしたり抑え込もうとしたり
感情を正当化したり批判したり超越したりと
実に様々な方法で恐怖に働きかけるからです
この行為は自我の運動であり
これが恐怖を持続させているのです
また、私たちが恐怖に働きかけるときには
かならず恐怖と自分との間で葛藤するので
葛藤から生じる苛立ちや自己嫌悪という
新たな苦しみを生み出してしまいます
しかし…
自分が恐怖の一部であることを洞察すると
恐怖と自分という二元性は消滅します
あなたが恐怖そのものであるとき
あなたにできることは何もないのです
恐怖そのものであるあなたが
恐怖に働きかけることなどできないからです
するとあなたがこれまで恐怖に働きかけてきた
行為の全てが止みます
恐怖を観察している観察者であるあなたも
恐怖の一部であることを洞察すると
部外者としての観察者は消滅します
そこにあるのは恐怖と名付けられた知覚だけです
このときようやく恐怖にとどまることができます
観察者のいない観察、つまりエゴのいない観察によって
あるがままの恐怖を知覚します
そこではエゴはジタバタしていないので
恐怖を観察するための莫大なエネルギーが
あなたの内に流れています
この爆発的なエネルギーが恐怖を焼き尽すのです
観察者は恐怖の一部
では最初の質問に戻ります
〜怖がっている自分を観察している自分は、
怖がっているのでしょうか?〜
怖がっている自分を観ている自分は
恐怖の一部なので怖がっています
しかし恐怖を観ている観察者であるあなたは
恐怖の一部なので観察者(あなた)と恐怖は
分離していません
本当はあるはずのない『あなた』と『恐怖』という
虚偽の二元性が存在するように感じるのは
恐怖を感じるや否やあなたは「何か手を
打たなければ」と感じて恐怖に働きかけることの
できる『自分』を恐怖から切り離すからです
あなたの思考は恐怖から『あなた』を切り離し
『あなた』という観察者を作り出しますが
『あなた』という観察者は思考の産物であり
恐怖もまた思考がこしらえた感情であるので
実際には観察者は思考の一部、恐怖の一部です
【観察者であるあなた】は、観察対象物(恐怖)そのものです
ただし観察者と観察されるもの~恐怖~を分離して
観察者が恐怖を観て思考を働かせているかぎり
思考のこしらえた恐怖は永遠に存在し続けます
人はいつもこのように恐怖を客観的に観察しては
正当化したり抑えこもうとするので
なかなか恐怖から自由になれないのです
恐怖から自由になるには
恐怖そのものであるあなた自身を観察しなければなりません
恐怖を何とかしようというエゴが
あわただしく動き回っていない
観察者のいない観察が恐怖を焼き尽し
あなたは晴れて恐怖から自由になるのです
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