A 不愉快なことを咀嚼して時には反芻までして味わい、
自分の心を執拗までに不愉快にしている人が多い印象があるのですが、
どうして人はこういうことをするのでしょうか?
私 おそらく過去・追憶を作動させる方が、
何が起こるか分からない未知である現在を生きるより、
易しいからではないでしょうか?
どんなに不快であっても過去の痛みや苦しみは、
既に知っている痛み、終わった痛みなので、
そこに安住する方が楽だと考えるのではないでしょうか。
A あまり想定していなかった見解です。
私 例えばクラスの席替えなんかの時に、
仲良くなった友達と席が離れてしまうことが、
残念ではありませんでしたか?
仲良しの友達と一緒の方がまだよく知らない友達と、
これから仲良くなっていくより楽なように、
思考という馴染みあるものに身を委ねる方が、
何が起こるかわからない現在に身を置くより、
安全だと感じるのではないでしょうか?
A 過去の出来事が自分を不快にしてもですか?
私 はい、どんなに辛い出来事だったにせよ、
それは既に知っている辛さです。
それは過ぎ去った出来事です。
しかし現在〈いま〉に身を置くことで、
これから味わうかもしれない辛さは、
未知であるのでこっちの方が、
過去の辛い出来事を思い出すことより怖いのです。
A 思考を働かせているかぎり今に生きられないのに、
なぜ人はこのようにしか生きられないのでしょう?
私 思考は自我そのものです。
あなたはあなたの考えそのものです。
つまりあなた=思考=過去=自我です。
自我は動いていることで存続できるので、
思考をいつも働かせています。
思考は過去の総体であるため、
常に過去に根付いているわけですが、
過去をいつも作動させておくことが、
自我の唯一の生き残る道なので、
殆どの人が過去に生きているのです。
頭の中で過去や未来のことを考えているときにしか、
自我は活躍できなからそうするのです。
A しかしそれでは現在に生きることはできないでしょう?
過去が作動しているとき今に生きることはできません。
私 仰る通りです。
だから殆どの既存宗教は自我をなくす重要性を説くのです。
思考は現在について考えることはできません。
私たちが考えることができるのは、
一秒先でも一秒前でも過去か未来のことだけです。
考えることで存在し続けることのできる自我にとって、
その内容が快か不快か大して重要ではありません。
自我は自分が生きていると感じたいがために、
思考を働かせることにただ必死なのですから..
ですからなぜ嫌な出来事を繰り返し考えてしまうのか、
という原因を調べるよりも、
思考から自由になることは可能かどうかを、
探究することが大切ではないですか?
思考から自由でなければ、
人は現在〈今〉に生きることはできないのだから...
A 思考を止めるために瞑想の実践などが、
やはり有効なのでしょうか?
私 思考の構造を理解すると、
〜思考が過去の運動に過ぎないことを理解すると〜
その知覚〈理解〉が思考を沈黙させます。
自我を焼き尽くすための修行や瞑想が必要なのではなく、
思考の構造・自我の構造を自己観察を通して理解するとき、
その理解が思考・自我を丸ごと取り除くのです。
思考というものは全て自由ではあり得ず、
全て古い存在であることを理解したときに、
沈黙が生まれます。
この沈黙は努力や方法、マントラや集中力、
によっては決して生まれません。
A しかしあなたは瞑想は大事だとブログで言ってますよね?
私 はい、ただ瞑想というと殆どの人が、
私が過去に実践していたような瞑想、
つまりマントラや特定のイメージに集中することで、
思考を意図的に沈黙させるような瞑想を、
思い浮かべるのではないでしょうか?
思考を意図的に沈黙させるものは、
瞑想ではありません。
瞑想とは精神を既知なるものから空しくすることであり、
それは思考の虚偽を理解して、
その理解から生まれる沈黙が瞑想です。
活動中の自我をじっくり見つめることが瞑想です。
A しかし現在〈いま〉を生きるには、
途方もないエネルギーが必要なのですね。
私 はい、生は河のように決して静止することなく、
毎日新鮮なアプローチを要求しています。
流れの速い川を下るにはもの凄い注意力が必要です。
途中には大小様々な滝があるかもしれないし、
大きな岩にぶつかって流れが急に変わるかもしれません。
激しい変化についていけるだけの、
注意力・瞬発力が必要ですが、
思考に夢中になっているときにはそれは持てません。
現在とは流れる川のように、
その先に何が待っているかわからないものですが、
過去の出来事や未来について考えている時というのは、
私たちにとって思考は馴染みあるものなので、
安心や安全を得られるように感じますがこれが大間違いです。
流れの速い川に肉体はありながらも、
頭の中は思考という過去の中を生きていたら、
危険だということは誰でもわかりそうなものですが、
殆どの人はこのように生きています。
思考のあらゆる運動は安全を求めているわけですが、
過去を作動している間は安全などというものはどこにもなく、
却って自らを危険に晒しているということに、
気づかないまま、人は過去にしがみついています。
このことを十分に本当に理解すると、
人は過去から思考から瞬時に自由になることができます。
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