質問
なぜ人は思考をずっと注視することができないの?
私は、2、3分しか続きません。
まず始めになぜ私たちはいつも、
ある状態を維持しようとするのでしょう?
私たちは快楽がずっと続くことを望みます。
満足している状態を維持したがります。
恋人との関係が永遠に続くことを望みます。
このようになぜ私たちは快適な状態の継続を、
願うのでしょう?
それは自己(思考)が自らを存続させようと、
しているからです。
継続を望むのは自己の運動であることを、
理解しましょう。
注視は維持できない
注視を維持することはできますか?
勿論できません。
瞬間瞬間を注視することで、
あなたは自己から解放されますが、
過去に思考を注視した際に味わった開放感を、
もう一度味わおうとその連続性を求めると、
あなたはまたもや自己に縛られます。
そして自己の支配下で行われる注視は、
もう注視ではありません。
なぜならその注視は、
自己の運動に違いないからです。
その注視はあなたを自己から解放するどころか、
自己を強め存続させてしまうからです。
ですから連続性を求めるのではなく、
瞬間瞬間注視することの大切さを、
理解しましょう。
思考をずっと注視できる?
注視は努力によって可能なのでしょうか?
もしあなたが努力して思考を注視するなら、
それは注視と言えるでしょうか?
注視は鍛錬によって、
できるようになるものでしょうか?
先程も少しお話しましたが、
努力は自己の運動であり、
努力や鍛錬による注視は、
自己を強化してしまいます。
身体の声を聴くプラクティスやトレーニング、
というゲームに多くの人が魅了されているようですが、
注視はこのような知識や経験の集積によって、
できるようになるものではありません。
愛が知識や実践、努力に、
支えられてはいないように、
注視もまたこれらとは全く無関係です。
愛に原因は存在しないように、
注視もまた注視だけが存在します。
注視は私たちが日々いかに多くのことに、
エネルギーを無駄に費やしているかを、
理解することによって生まれます。
しかし注視し続けることはできません。
思考をずっと注視することなどできません。
四六時中思考を注視しようという考え自体が、
自己の運動であり、自己の願望に他なりません。
このことをよく理解しましょう。
先程もお話しましたが、
私たちが莫大なエネルギーを、
噂話や葛藤、努力やもめごと、怒りや嫉妬、
悩みや問題解決や思考のお喋りに、
浪費していることを理解すると、
自らの思考や言動に気を配るようになり、
注意深さは自ずと現れます。
ですから注視を維持させようという、
巧妙な思考の網に囚われないようにしましょう。
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