問い:悲しみを乗り越えることはできますか?
悲しみから自由になるにはどうすればいいですか?
乗り越えようとしているのは誰ですか?
悲しみを乗り越えようとしているあなたは、
悲しみとは別の存在ですか?
悲しみを乗り越えようとしているあなたは、
悲しみの一部ではないですか?
悲しみに襲われたことに動揺したあなたは、
その悲しみを見つめることなく、
思考で何とか解決しようと必死です。
そうした過程で考えついたのが、
悲しみに抗がうことであり、乗り越えることです。
つまり悲しみを何とかしたいあなたが、
悲しみからあなた自身を切り離し、
悲しみに働きかけることができる存在を作り出しました。
悲しみとは別に、悲しみを見ている自分という、
「観察者」を作り出したのです。
しかし観察者(あなた)もまた、悲しみの一部です。
思考者が、思考の一部であるように..
あなたは悲しみそのもの
悲しみの正体をよく見てみると、
あなたは悲しみそのものだということがわかります。
そして悲しみそのものであるあなたが、
悲しみを乗り越えることなどできません。
自分が自分を乗り越えることなどできません。
自分が自分を乗り越えているところを、
想像しただけで笑えませんか?
しかし殆どの人は不快の感情に襲われたとき、
このような馬鹿げたことを真剣にやっています。
悲しみをなかったことにしたり乗り越えようとしたり、
悲しみを忘れるために仕事や娯楽に逃避したりと、
私たちは実に様々なことを行いますが、
これらの行為は事実に向き合うことを避けるから、
為される行為であり、悲しみを観察するなら、
これらの逃避行為は終わります。
事実(悲しみ)にとどまるとき、 心は静かになります。
そのときには、悲しみと悲しみを見ているあなた、
という二元性はありません。
悲しみ即あなたです。
悲しみにとどまるとき、そこに在るのは悲しみだけです。
「私」と「悲しみ」という条件付け
人は悲しいとき「私は悲しみである」とは言わず、
「私は悲しい」と言います。
このことからも私たちが悲しみと自分をまるで、
別個の存在のように思い込んでいることがわかります。
長い間私たちはこのように、条件付けられてきました。
しかし実際は、私は悲しみそのものであり、
「私」と「悲しみ」という二元性はありません。
そして二元性が存在しないので、
悲しみを乗り越える存在も、押し殺そう、
逃避しようとする存在もいません。
つまり、悲しみをどうこうできる存在はいないのです。
あなたは悲しみに対して、
何一つ働きかけることはできません。
このことが本当に理解されると、逃避行為は止みます。
逃避しなくなったあなたはようやく、
悲しみ(事実)にとどまることができます。
事実を見るとき、自己はいない
あるがままの事実(悲しみ)にとどまるとき、
そして事実(悲しみ)を注視するとき、
十分に見られた悲しみは満足して消えます。
というのは事実を見るとき、
そこに「自己」は存在しないからです。
あなたが事実にとどまるとき、
あなたの「私・自己」はいません。
そして悲しみに暮れていた「自己」がいないので、
悲しみも消えるというわけです。
「自己」がいるか、それとも事実を見ているか、
どちらかであり、これらが共存することはできません。
ですから悲しみに襲われたときには、
悲しみにとどまりありのままを観察しましょう。
すると悲しんでいる「私」も悲しみも消えます。
このように悲しみは見つめると終焉します。
そしてあなたは悲しみから自由になります。
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