私たちの多くは苦しみや悲しみを感じると、それに抗おうとします。
お酒を飲んだりテレビを観たり友達と話し込んだり、
ギャンブルに夢中になったり信仰に逃げたりと、
ありとあらゆることに逃避し、
一瞬でも苦しみから自由になろうと必死です。
しかし現実から逃避するときはいつでも、精神は正気ではありません。
キリスト教の影響なのでしょうか、
私たちは苦しみを何か立派なこととみなし、
苦しみは避けては通れない必要な経験のように考えがちです。
「苦しむから、他人の苦しみが理解できる」
「辛い経験をしたから、他人の痛みがわかる」
「同じように苦しむ人を助けるために、今苦しんでいるのだ」
「苦しみを経験した人は、他人に優しくなれる」
このような意見を耳にしませんか?
苦しみを経験しないと人の苦しみを理解できないというのは、
ドラッグをやらないとその依存性を理解できない、
と言っているのとあまり変わりありません。
病気にならないと病気で苦しむ人の気持ちは、
わかりませんか?
タバコを吸わないと、タバコの害を理解できませんか?
悲しみを経験しなければ悲しむ人の気持ちは、
わかりませんか?
貧しさを経験しなければ、
貧しい人の気持ちはわからないのですか?
このような解釈は「苦しみや悲しみは避けられないもの」
という認識から生まれたのではありませんか?
どうしたって避けることができないものなら、
ポジティブに考えようじゃないかと、
苦しみを何か立派なこととしてみなすようになりました。
このように私たちはいつも、都合のいいように解釈します。
しかしこんなひねくれた精神が、
あるがままに出会うことはありません。
悲しみを解釈したり逃避するときには、
あなたはありのままの悲しみを理解することはできません。
そして理解できないから、人は繰り返し悲しむし苦しむのです。
苦しめば苦しむほど、悲しめば悲しむほど、
私たちはそれから逃れようとし幻想を作り出し、
何とかして逃れる手段を見い出そうとします。
ですから正気で健康な精神は苦しみを理解して、
苦しみから自由にならなければなりません。
※次回は苦しみ・悲しみから自由になることは、
可能なのか調べます。→ 苦しみ・悲しみを探究する①
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