どのようにして自分自身について理解することができるのでしょうか?
関係を通して理解する
鏡が自分の姿を歪みなく映し出すように、
心の動きを〜 思考や衝動、意地悪さや残酷さ、恐怖 etc〜
すべて映し出してくれる鏡があります。
それは、関係という鏡です。
あらゆる関係を通して、
私たちは自分自身について理解することができます。
上司との関係、仲間との関係、両親との関係、恋人との関係、
自然との関係、動物との関係、自分の思考や感情との関係.....
このような関係を通して、自分のことを学べます。
つまり、周りにあるもの全てが、
自分について学ぶための教材だということです。
自己理解のための教材は至る所にある
会社の偉い人と一緒にいるときの態度や、
仕事ができない人といるときの態度を観察すると、
他者に対する敬意がどれほど表面的なものなのかを、
思い知らされます。
喧嘩している人、顔を真っ赤にして怒っている人、
人を見下して、失礼な態度をとっている人を見ると、
自分の態度や行為を見直します。
悲しみの最中にある人、虐げられた人々を見て、
自分にも悲しみや恐怖、暴力性があることに気づきます。
政治家にペコペコしている人々や、
芸人が先輩芸人を褒めちぎっているのをテレビで見ると、
自分の内部の醜さや俗物根性に取り組み始ませんか?
桜の花の美しさを見ると、美しさについて考えませんか?
水面を首をスッと伸ばして悠然と凛として進む鳥を見ると、
自分の歩き方や話し方、生き方を振り返りませんか?
裸木のシンプルさを見ると、
自分の心の複雑さを実感しませんか?
このように私たちは関係を通して、
自分自身の愚かさや貪欲さ、
妬みや薄っぺらさに気づくことができます。
関係は私たちのありのままの姿を映し出します。
関係は私たちが見たい姿ではなく、
ありのままの姿を映し出してくれる鏡なのです。
自己理解に終わりはない
自己理解に終わりはありません。
私たちは周りにあるもの全てと関わっています。
人と関わらないように生きていても、
木や花や空や雲、鳥や石ころや物と、
私たちは関わっています。
ですから私たちは四六時中自分について、
学ぶ機会が与えられているのです。
人間の心理や意識について書かれた本を読まなくとも、
私たちはあらゆる関係を通して、
自分自身の内部を理解することができます。
グルや哲学者の教えに一心不乱に従っていては、
木や鳥や山や落ち葉が示してくれるものを、
つかみ取る繊細さが欠けています。
頭を知識で一杯にしていては、未知のものから学ぶことも、
未知なるものを見出す情熱も持ち得ないのです。
ですから既知である知識ではなく、
雨や星や太陽、家族や友人という未知なる存在に、
目を向けましょう。
自己観察・自己理解を通して精神は減速する
あらゆるものとの関係を通して、
自分自身について刻々と学んでいると、
精神の動き(思考の構造)は明らかになります。
精神の動き(思考や感情)を刻々と観察することで、
私たちの精神は減速します。
精神が思考や感情に従事していないときのみ、
物事の真偽を即座に掴むことができます。
つまり自己観察・自己理解を通して沈黙した精神で、
神の真偽について、真実について、生きることについて、
時間を超えたものについて理解するようになるのです。
自己理解は英知の始まりです。
自己理解は宇宙を理解する始まりなのです。
関係を通して揺れ動く内部の動きを刻々と観察するとき、
私たちは四六時中、自分自身について学んでいます。
それは自分という一個人についての学びではなく、
全人類についての学びです。
どんなグルにも教師にも書物にも、
このような学びを教えることはできません。
なぜならあなたが自発的に自分の感情や思考を、
あらゆる関係を通して観察しなければ、
学ぶことなどできないものだからです。
これが自己理解という学びの美しいところです。
自分以外、誰にも与えることのできない学び、
お金や知識、権威では決して手に入れらない学びが、
自己についての理解です。
本当に尊いもの、かけがえのないもというのは、
地位や名誉、知識のあるなしに関わらず、
全ての人に開いています。
これが生命の本当に美しいところだなあと、改めて思います。
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