私たちの内に真我は存在するのでしょうか?
多くの宗教家・神秘家・探求者らが、
これまでそう主張してきました。
真我の存在を肯定する人の説明を聞いても、
神秘体験をしたからわかるのだとか、直感だとか、
本当だと信じるからだと言うだけで、
論理的な説明をされる方に出会っていません。
ですので今日は真我の是非について、
一緒に探究しましょう。
光と闇は共存しない
闇は光を内包することができますか?
闇と光は共存できますか?
真我の存在を信じている人は闇と光は共存できると、
主張しているのと同じではないですか?
人間の内面は、闇に例えることができます。
私たちの内には嫉妬や怒り、憎しみ、
競争心や闘争心が渦巻いています。
そんな私たちをなだめ元気づけるように、
宗教家やスピリチュアリスト達は言います。
『あなたの内には何にも染まることのない、
真我が存在するんだよ、神をいるんだよ、
本当のあなたは純粋そのものだよ』と..
さて、これは事実でしょうか?
『闇の中に光が存在する』というのは本当ですか?
闇をよく観察すると、闇が存在するとき、
光は存在しないことがわかります。
つまり彼らの主張は、虚偽だとわかります。
怒りと純粋さは共存しない
怒りと純粋さもまた、共存することができません。
もしあなたがどちらの性質も持っているというなら、
あなたが思っている純粋さは、純粋さではありません。
あなたはそう思い込んでいるだけです。
なぜなら、怒りを感じるときには、
あなたの内面はすっかり怒りの色に染まるからです。
怒りや野心や欲望が充満しているところに、
純粋さが存在するとはどうしても考えられません。
怒りに染まらない真我というものが、
内に存在するなんてあり得ません。
※真我というと分かりにくいので、
真我=純粋さ・無垢・愛だと思ってください
つまり、何にも染められることのない真我というものが、
私たちの内部に存在することはできないのです。
全ての人内部にあるのが純粋さや誠実さだけだとしたら、
真我の存在を否定し切ることはできませんが、
世の中を見るとそうではないことは明らかなので、
真我の存在は否定できます。
つまり真我は虚偽です。
観念を捨て、事実と直面する
ですから観念は捨てて、
あるがままの姿を見つめましょう。
あなたの中身を曇りなく観察しましょう。
生まれた感情と向き合い、見て触れて感じるのです。
あなたが本当にそうするなら、
そこにドロドロした感情を発見するでしょう。
そのとき都合のいい観念 〜真我〜 に逃げずに、
あるがままの感情を凝視するのです。
すると何が起こるでしょう?
鋭利な観察の炎が、感情を焼き尽くします。
闇は消滅するのです。
闇が消滅したら、何がありますか?
闇が取り除かれると光が..
闇が取り除かれると、光が生まれます。
もう一度言います。
光が最初からあったわけではありません。
ドロドロした感情〈事実〉に向き合ったあなたの正直さが、
内面の感情〈闇〉を丸ごと片付けたのです。
しかし、真我があると信じて込んでいる人には、
あるがままを見つめることはできません。
なぜなら、彼自身の醜い感情に気づいたとき、
一瞬は動揺しても、次の瞬間には、
「本当の自分は純粋なのだ」と自分に言い聞かせて、
それでおしまいだからです。
彼が感情〈事実〉に向き合うことは決してありません。
つまり彼は、真我を信じるが為に未解決の感情を抱えて、
生きていかねばならなくなったのです。
本当の自分は純粋なんだといくら魔法をかけても、
それで彼の内面が変容することはないのです。
彼は感情を焼き尽くすことも、
真我を見出すこともできません。
これはひとえに真我という観念が、
感情を歪みなく見ることを阻むからです。
真我は存在しない
私たちは希望を与えてくれる観念を、
真偽も確かめずに信じますが、
事実のみを見ている人にとって、
観念は不要であるばかりか、
避けて通らねばならない危険物です。
なぜならあらゆる観念は、
起こっていることを歪めるからです。
観念があるがまま〈事実〉から、注意を逸らすからです。
あなたが観念に囚われることの危険を理解したなら、
いますぐ観念を片付けましょう。
真我という観念を手放しましょう!
詩人の名前をどうしても思い出せませんが、
彼が幻想について詠った詩を最後に送ります。
(うろ覚えですが...)
消えろ! 幻想よ、僕の怠惰な精神から、
あの雲の中へ去れ、そして二度と戻って来るな
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