前回の記事で(苦しみ・悲しみ探究する①)苦しみ/悲しみについて
一緒に探究しましたが、今回はより深く調べていきます。

別のことをしながら読むのではなく読むことに注視し、
あなた自身の反応にも意識を向けながら、
一緒に苦しみ・悲しみという問題に潜っていきましょう。

そうして苦しみを理解し探究するなら、
この記事を読み終える頃にはあなたは、
苦しみから自由になっていることでしょう。




さて私たちはどうして苦しむのでしょうか?
苦しみに終わりはあるのでしょうか?


苦しみや悲しみを理解するためには、
時間がどのように関与しているか調べてみなければなりません。

私たちは過去の苦しみや悲しみを引きずり、
また将来を考えることで苦しみや悲しみを作り出すので、
実は時間こそがこれらの原因なのです。





将来を考えることで生まれる悲しみとは、
どんなものでしょう?

いつか何者かになるぞという希望や願望は、
必ず苛立ちを伴います。

近い将来、今とは違う自分になるのだという概念は、
大きな悲しみを生みます。

目指すものにまだ到達できてない苛立ち、
能力のない自分への苛立ち、願望同士の絶え間ない葛藤、
矛盾だらけの自分 or 無力な自分への絶望感、
より賢くより偉大でありたいという願望の背後にある、
ありのままの自分への不満や空虚さ、
言葉にできない孤独や寂しさ..

苦しみや悲しみは私たちが実際の自分にとどまらず、
理想へとなりゆこうとする過程において、
生まれるものだということを理解しましょう。

つまりなりゆくこと、あるがままから離れる行為が
苦しみや悲しみをもたらすのです。

ですから苦しみや悲しみから自由になるには、
なりゆく行為、あるがままから離れる行為が、
止まねばなりません。





多くの人が、苦しみと表面的に出会います。

そして浅はかな精神は、寺院や結論、概念や信念に
逃避します。

しかし苦しみから逃げていては、
理解することはできません。

「過去生で悪いことをしたから、今生で罰を受けている」
「誠実に生きているから、将来きっと良いことが起きる」
「なぜ苦しむのが自分なのか、理由〈わけ〉を知りたい」

浅はかな精神はこのように、カルマなどの概念や説明で納得します。





苦しみや悲しみを感じるときの、内部に注意を払いましょう。

内部で何が起こっているのか、観察します。

苦しみや悲しみを都合のいいように解釈してないか、
仕事や信念に没頭することで
遠ざけようとしていないか観察します。

アルコールやセックス、娯楽に逃避してないか、
冷淡になることで悲しみに動じない力を得ようと
していないか、丁寧に観察します。





苦しみの傷は、根が深いのです。

世代から世代へ親から子へと受け継がれ、
浅はかな精神は決して包帯をとって
直に傷を見ようとしません。

ですから私たちは本当は苦しみを知りません

浅はかな精神は不快なものから逃れようとするので、
そのような逃避する精神が、
苦しみを理解することなどできないからです。

私たちの知っている苦しみは概念です。

それはイメージや象徴であって、苦しみではありません。

直に触れることなく苦しみという言葉から、
私たちは過去に味わった苦しみを想起します。

いま感じている苦しみにとどまることなく、
過去の苦しみを記憶から引っぱり出し、
それを味わっているのです。





あなたの内部を観察してください。

あなたは決して苦しみにとどまりません。

苦しみについてのイメージや、
以前味わった記憶と共にいるだけで
事実と出会ってなどいないのです。

つまりあなたは、苦しみに対する自分の反応と共にいるのです。

空腹のとき食べ物という言葉が
お腹を満たしてはくれません。

私たちは概念ではなく空腹を和らげてくれる食べ物を、
必要としているのです。

しかし私たちの殆どが説明・概念に満足し、
事実にとどまろうとしません。

私たちが観念を食べて満足しているのです。

苦しみを感じるとき、空腹と同様、
その感覚を味わうことが大切です。

メニューを見てお腹一杯にはならないように、
苦しみが生まれた原因を探し出しても
納得のゆく説明を哲学書に見つけても、
あなたの苦しみが消えるわけではありません。





悲しみと出会うときそれはある種の
ショック状態をもたらします。

ショック状態から抜け出そうとする浅はかな精神を、
観察しましょう。

そして逃避が理解を妨げることを洞察した精神は、
悲しみととどまります。

悲しみを理解するためには、悲しみと生きるのです。
悲しみをよく観察し、それが何を意味するのか知ることです。

自分の悲しみは自己憐憫ではないか、観察します。

社会に認められたいのに実現できない私、
常により良い自分になること、
有名になることを望み自分を追い込む精神は、
永遠に苦しみます。





苦しみや悲しみを理解するには、
精神の過程が理解されねばなりません。

事実とともにとどまるとき、それは理解可能です。

楽しいと感じると、精神はずっと続くよう
その気持ちをキープしようとし、
痛みを伴う感情が芽生えるとすぐさま追い払おうとする..
この精神の巧妙さが理解されねばなりません。

逃避する愚かさ、快をつかんで離さない精神の愚かさ、
鈍さ、空虚さをよく観察しましょう。





最後に、例を挙げます。

大切な人を失ったとします。
この出来事に対する私の即座の反応は、ショックです。

大事な人を突然失ったとき、精神は麻痺状態に陥ります。
そして麻痺状態から抜け出すと、私は悲しみに包まれます。

彼との親交、一緒に過ごした時間、一緒に歩いた散歩道、
将来二人で行うはずだったことが一瞬にして奪われ、
私は空しさで一杯です。

私は独りぼっちになった今の状況に、抗います。

突然一人ぼっちでたまらない状況に、
必死に精神は反抗します。

抗うから、痛みを感じるのです。

精神が事実に抵抗するとき、
悲しみや苦しみを感じるのです。

大切なのはの空しさにとどまることです。

いかなる反応もせず彼の死を正当化せず、
牧師やグルや書籍に救いを求めず空しさにとどまります。





苦しみや悲しみで一杯のとき、
このようにあなたが一歩一歩順を追って進むとき
そこには苦しみ・悲しみの終焉があります。

精神は完全に空っぽの状態にあり、
空虚感を理想や概念で満たそうとする精神の運動はありません。

精神は静止しています。

このように何一つ行うことなく事実に直面するとき、
あなたが守らなければならないものなど、
何一つないということがわかります。





ここに書かれていることに、
あなたは向き合わないかもしれません。

悲しみや苦しみの問題を調べるには、
自分自身の内面を調べることが不可欠ですが、
あなたはそれを拒否するかもしれません。

というのもあなたは知っているからです。

苦しみや悲しみから自由になるためには、
あなたが大事にしているもの、誇りに思っていることを、
手放さなければならないということを!

それは信念、価値観、理想、目標、伝統、努力、
繰り返される自らの反応 etc...です。




あるいは読むだけで苦しみや悲しみから、
自由になった気になるかもしれません。

しかし苦しんでいるまさにそのとき、
内部で起きていることを観察しなければ
精神の過程を理解することはできないし、
理解なしに、苦しみから自由になることはできません。

ですから忍耐強くそして誠実に自らの内部を観察し、
苦しみや悲しみにその物語を語らせましょう。

すると苦しみ・悲しみは花開き、終焉します。




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真理探究に15年を費やした後あらゆる修行・規律・イデオロギーは不毛であると気づく。以来感覚だけを頼りに思考と感情を刻々と観察しながら自己について学んでいる

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