・苦しみ・悲しみから自由になることは可能でしょうか?
・苦しみ・悲しみを感じないで生きることはできるでしょうか?
これらの問いに直ぐに反応せずしばしの間、
静かに問いと共にいましょう。
そうしてあなたが「不可能」と答えるのなら、
探究する扉を閉ざしてしまうので、
これ以上調べることはできないということを理解しましょう
また、あなたが悲しみを受け入れたり
それから逃れようとするなら、
またもや扉を閉めてしまうので、
それ以上調べることはできません。
悲しみから逃れるために、あなたは恋人や仕事、
アルコールや趣味に夢中になるかもしれません。
祈るために教会や寺院に足しげく通うかもしれません。
しかしこれらは全て、事実からの逃避です。
悲しみから逃れる手段が何であれ、
次第にその手段はあなたにとって大切なものとなります。
教会が、寺院が、神が、アルコールが、仕事が、セックスが
あなたにとってなくてはならないものとなり、
あなたは依存するようになります。
つまりあなたは見つめることなく、悲しみを追い出したのです。
ですから自分の悲しみを理解することも、
直面することもできません。
これが私たちが、普段行っていることです。
苦しみを理解するために逃避することなく、
苦しみに立ち返ることはできないのでしょうか?
解決策を求めているのではありません。
苦しいときその苦しみととどまることはできないか、
問うています。
苦しみには肉体的なものから精神的なものまでありますが、
このブログでは常に精神的な領域についてお話しています。
肉体的な痛みは医者にかかったり食生活を変えるというように、
何らかの解決策がありますが、将来を考えることで沸き上がる、
不安や恐怖がもたらす苦しみをどうすればよいのか、
私たちは知りません。
対処しようのないものは「受け入れるしかない!」と多くの人は考えます。
しかし「なぜ受け入れなければならないのか?」と私は問います。
苦しみを受け入れたり軽減しようと試みたり逃避することは、
不快さをどうにかしたい表面的な精神の、
行う活動に他なりません。
ですから私は苦しみを理解しそれが何を意味するのか、
苦しみの全貌を知りたいのです。
概念や結論に満足することなく、
苦しみという事実と向き合って理解したいのです。
苦しみから逃げたり、因果応報などの概念を持ち込んで、
苦しみにアプローチしてみても、苦しみと直面することはできません。
精神が苦しみに反応することなく苦しみと共にいるとき、
苦しみを理解することができるのです。
快・不快に応じて逃避したり概念を築き上げたり受け入れたりと、
忙しく動きまわる神経症的な精神の動きを洞察するとき、
精神は静まります。
苦しみから自由になるために、
あなたは苦しみに何一つ行うことはできません。
苦しみに襲われると、精神は危機から逃れようと必死になって
何かに逃避したり概念を築き上げたり抑え込もうとします。
だから私たちは、いつまでも苦しみ悲しみ続けているのです。
あるがままに抗うときに、苦しみを感じるのです。
現実に抗うから、痛みが生まれるのです。
ですから苦しみを感じるときには、苦しみにとどまりましょう。
事実ととどまるのです。
そうして自分の反応をよく観察します。
逃げたり批判したり受け入れたりせず、
あるがままととどまるのです。
あるがままととどまる精神は、
もはや抵抗していないので苦しみは消滅します。
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