同じものを見ていても、同じようには見ていない。
同じものを聴いても、同じようには聴いていない。
私たちが違う見方をするのは、
異なる背景を通して見ているからです。
背景は育った環境や両親の影響、受けた教育によって違います。
これまで蓄積してきた知識や経験によって、異なります。
影響を受けた人や書物、思想によって異なります。
この背景が、私たちの信念を作り上げます。
この背景が、理想や人生の目標、価値観を形成します。
背景が「私」という一個人を、作り上げるのです。
私たちが最も信頼しているのは自分の意見や感じ方です。
私たちが信頼しているのは、背景です。
思考は、この背景の運動です。
人によってガラリと変わる背景を、
私たちは信じて疑わないのです。
誰かと議論する際、
私たちは自分の意見に自信を思っています。
あなたが判断するとき、判断するのはあなたの思考です。
判断するのはあなたの背景です。
人によって異なり更新され続ける背景に、
完全な背景などというものはありません。
つまり思考は、どんなに崇高でも不完全なのです。
不完全な思考で、相手を理解しようとしても無理です。
不完全な思考で相手の話を聴いても、
相手の真意をくみとることはできません。
知識や経験の総称である思考は、
機械を相手にする場合は役立ちます。
科学やコンピューターの研究、車の運転などには役立ちます。
本を読んだり、コミュニケーションをとったりする場合
には必要です。
しかし相手が生きものである場合、
思考は対象物の理解を妨げます。
※思考は、知識・記憶・願望・信念・理想・感情を含む
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背景で相手を理解しようとするかぎり、
あなたは自分の望むように見ます。
好意をもつ相手であれば、相手の良い面は拡張されます。
嫌いな相手なら、あなたの判断は正しいことを裏付ける
相手の悪い箇所を拡大して見ます。
つまり背景を通して見ているかぎり、
あなたは信じたいものを信じ、見たいように見るのです。
これは歪んだ観察であり、
対象物の本質を理解することはできません。
思考に色付けられているものは、事実ではありません。
背景を手放さなければ、
相手の話を聴くことなどできません。
背景で整理して相手のことをわかった気になりますが、
その理解は常にあなた色の染まります。
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では背景を手放して聴くと、どうなるでしょう?
あなたと相手のあいだにフィルターがないので、
相手の話は背景に歪められずにダイレクトに届きます。
話していることの本当と噓が、即座にわかります。
その理解は知識から来るものではありません。
頭の中が空っぽのとき、相手の話はダイレクトに届きます。
しかし殆どの場合、相手の話とそれを咀嚼するまでの間に
時間が存在します。
相手の言葉一つ一つが、ダイレクトに届くことはありません。
まずは相手の話があり、その後あなたは自分の知識を総動員して
相手を理解しようとします。
この際、相手の話とあなたの理解にはインターバルがあります。
このインターバルが背景です。
このインターバルが思考の動きです。
このインターバルが知識の活動です。
ですから思考が及ばない領域まで、
相手を理解することはできません。
理解は常に、あなたの思考が理解可能なことに限られます。
背景を取り払ってくれる唯一のものが、注視です。
注視とは、、、
あなたの存在全てで、相手の言葉を聴きます。
あなたの存在全てで、相手を見つめます。
あなたの存在全てで、相手と向き合います。
完全なる注視が思考をストップします。
そして思考が止んだとき、
あなたは相手の話を即座に理解します。
そこに時間の介入はありません。
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完全なる注視で、全てのことを向き合います。
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etc.
あなたの存在すべてで、これらを注視します。
そのときあなたは相手の本当と噓を、即座に洞察します。
またあなたの内面も理解します。
これこそ、純粋な観察であり純粋に聴くということなのです。
そしてこれが、日々瞑想するということです。
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